May 12, 2021

コロナ禍に問われる日本人の知恵

 コロナ禍になったからか、にわか自然科学者や、医者もどきが増殖している。ひとつの話題に「うがい」が意味あるかというのがあって、意味がないという人の論は、厚生労働省が、新型コロナに対するうがいの効果について、「世界的にうがいの習慣は少なく、科学的に確立されたエビデンス(根拠)はない」と説明するのに相乗りしているに過ぎない。しかし日本の厚生労働省は、「のどの調子を整えるために習慣になっている人もいる。とくに推奨はしていないが、否定するものではない」とはしている。

 「うがい」という行為単体での効果を、科学的に云々は、そんなことはどうでも良いとまで言わないが、日本人が続けてきた経験の方が大切だろう。

 大抵、うがいをする時、帰宅し、先ずは洗面所など鏡のある場所へ行き、手を洗い、自分の顔を見、コップに水、薬を入れ、がらがらっと上を向いてやり、吐き出し、鼻が出ればかみ、口元を洗う。  

 うがい単体よりも、こういうストーリー化された行為が重要だ。ギリシャ人は自己への配慮を、人の知恵に大切とした。

 うがいをする時、顔色、喉や首の筋肉の違和感、鼻腔の通りを知り、また手を洗い汚れも落としている。手だけならば、アルコールで洗うで十分だが、鏡を見て自分を調べる行為は欠落する。これが健康に資することは言うまでもない。

 なんでもファクトばかりを一面的に捉える還元主義は馬鹿らしい。理が先立ってばかりは、そもそもの全体を失うことも多い。

 何が良い、何がだめだと理が先立つ前に、自らを感じることが大事だろう。

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July 08, 2020

混沌、あるいは入れ子化していく「私」の彼岸。

 東京は冬だったか。春もなく、いや夏だったかもしれない。

 部屋。空虚さはここだけでなく、そこかしこに溢れていた。ペスト菌が溢れた世界にて、住居に流刑されたと言ったのはカミュだったが、極小さな無生物からの寄生に怯えて暮らす私たちも、同じようにロックダウンをして、身を守っていた。

 空気清浄機が静かに回っているが、これが微細なウイルスを駆除するわけでもなく、それを体感できることもない。しばし点滅する信号が、確かにやっているのだというメッセージを送信してくる。機械が私たちに、安心しなさいと語るのだ。それは木像を神と祈る未開人と変わりはない。(現実界は力を失い、主体なき機械が私たちを慰める)

 日本人は奇妙な潔癖症からか、または自分を公から隠したいという遁世の気持ちからか、ウイルス以前から顔をマスクで隠す人が多かった。その効果があったのか、マスクの生活への移行はスムースだった。花粉症であるとか、様々な理由を述べてマスクをしなければなかったのが、言うまでもなく誰もが自然のこととして受け入れた。マスクは肌の外に、手と半ズボンなら脚の他に、唯一露出していた顔の半分を隠す。口と鼻という二つの穴、その前から隠されていた肛門、その他の性器の穴は塞がれた。現実を感じる受け入れ口は、目と耳を除いて、閉じてしまったようだ。その分、目と耳は無理やり稼働しなくてはならなくなった。

 そして目は書かれた文字と、映像(絵)という象徴界へさらに向かう。かつてマクルーハンがTVはマッサージだと言ったが、2020年の現在では、スマートフォンも、インターネット環境そのものがTVと同じ、感覚と刺激の拡張になっていて、そこからツイートやインスタグラム、またリンクした無量の動画の渦のなかに没入し、世界は透明になったようでありながらも、まさに混沌とした。

  無量にあるデバイスから誰もが侵入できるネット界は、自分の似姿を加工し、投影できる場所でもある。ナルシスは、自らの姿におぼれて死んでしまうが、ナルシスが水面に映る自分のイメージに恋をしたからと言われる。つまりナルシスは現実の肉体ではなく、「私」から分裂し、他者化した自己のイメージに溺れてしまった。それから鏡も、写真も進化し、自己像のイメージも分裂に悩むのは、映画俳優や、一部の有名人だけの出来事ではなくなった。そこいる私と、ここにいる私は違う。二年前のあの写真の中の姿が本当の「私」で、今の「私」はそうではない等。しかもイメージは同時に社会化され、想像界と象徴界とも結ばれている。もしその自分を否定できるのならば、会ったこともない政治家や有名人も同様に存在しないと断言するようなものだ。そこには虚偽も事実もなく、無限につながる鏡=イメージの共振があるだけだ。まるで対峙した二枚鏡を覗き込んだ時のように。

 ラカンの言う「現実界」「象徴界」「想像界」に存在する「私」をまず取り込む、存在である「現実界」の上、第二の皮膚は「言語」であり、第三の皮膚は「想像(イメージ)」である。その外の構造は、順に「家族」「共同体(学校、会社)」「国家(大きな社会)」と階層化していく。しかし高度化するメディアはウイルスのように、その身体を書き換えて、増殖し、階層化し、「私」(皮膚)を蹂躙する。階層化した世界を打ち壊し、あらゆる穴に侵入していく。もはや構造も、いったい何が層となっていくかもわからない。

 「私」は探し求める。父や母が好きだった物語を受け継いでいるか、国家が制度化した標準的な国民であるか、または消費社会が生み出した膨大な物語のなかでどういう役割を演じているか。好きな有名人(宗教家)が演じたコンテクストに自分が寄り添っているか、憧れるブランドの世界に自分は繋がっているか等、様々な要因のなかに自らを失い、さ迷っている。

 ジャン・ボードリヤールの視点を借りて、「広告」を「SNS(ネット)」に置き換えるとこういうことである。

 SNSの狡猾さと戦略上の価値は、まさに次の点に存在している。すなわち、誰にも自分の社会的威信を確認したいという気持ちを起こさせて他人と比較させることである。

 SNSは決して一人の人間だけに対して向けられることはなく、個人を他者との示唆的関係において標的にしている。個人の「奥深い動機」をひっかけたように見えるときでさえ、SNSはいつもよく目立つやり方でそうしているのだ。

 ■つまり、彼や彼女と親しい人々や集団あるいは階層化された全体を、読解と解釈の過程、SNSが作り出す自己顕示の過程へと呼び出すのである。

 高度資本主義は半世紀前に、商品を使用価値ではなく、象徴的な価値へと変貌していくことへ変容し、その先に個人が自分に対して商品化していく次元へと至っている。自己顕示のさなか、欲望の階層化の果てに、自らを売春婦とし、その稼いだ貨幣を、また別の売春婦へ贈与するのである。それでも自己顕示により社会性の中で、自らの商品価値が拡大すると想像しながら。

 現在、世界の検索を事実上支配しているGAFAの、特にグーグルは、象徴界(言葉)所有してしまうことを目指している。紐づけられた現実界、想像界が、そこから結びつけ、資本主義のシステムに処理され、操作され、または個人の物語が消費されていく。消費された「私」はまた顔を失い、新しい顔を求めて回遊する。その行動に、すべての消費が紐づけられていく。

 中国の故事に、渾沌(こんとん、拼音: húndùn)がある。中国神話に登場する怪物の一つであり、四凶の一つとされ、その名の通り、混沌(カオス)を司る。犬のような姿で長い毛が生えており、爪の無い脚は熊に似ている。目があるが見えず、耳もあるが聞こえない。脚はあるのだが、いつも自分の尻尾を咥えてグルグル回っているだけで前に進むことは無く、空を見ては笑っていたとされる。善人を忌み嫌い、悪人に媚びるという。また別の説では、頭に目、鼻、耳、口の七孔が無く、脚が六本と六枚の翼が生えた姿という説もあるが、荘子いわく、目鼻をつけると死んでしまうそうだ。

 私たちは移動できなくなることにより、さらに混沌に引き込まれ、現実界から遠ざかっていく。官能と暴力の彼岸へと、世界は邁進し、さらなる混沌へと引き込まれていく気がしてしまう。だが、もしAIによる、つまり機械による効率化や管理が、この混沌に道理を持ち込んだらどうだろうか。そこが一番恐ろしい事態かもしれない。

 蓋し、混沌の死と同時に、高度資本主義も絶滅するのだと思う。

 

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June 08, 2020

ジョージ・フロイド氏の無残な死

白人と体制(警察官)がひとりの男を殺した。

確かに犯罪行為が推量される状況だったかもしれない。しかしあの映像が「象徴」的につきつけた事実は、現在も世界に「白人」社会と「近代資本主義国家」が、多大な奴隷の犠牲によってはじまり、またいまもそれが終息していないことだ。

確かに、あの警察官も裕福ではなくサイレントマジョリティーのひとりかもしれない。現在、アメリカの富の格差は著しく、そこにコロナ騒動もあり、もはや数千万の雇用が瞬間に失われ、同時にその影響も関係なく抑圧された人々がいまも大勢いるという事実である。フォーブス誌によると、2018年を見ると、最も裕福な10%が、家計資産合計の70%を所有している。この数値は、1989年には60%だった。トップ1%に流れ込む割合は、1989年の23%から、2018年には32%に跳ね上がっている。2020年も更に加速してるだろう。

奴隷制のはじまりは、1619年8月下旬、ホワイトライオンという名のイギリスの船がアメリカに奴隷を荷下ろし、1662年、バージニア州の議員が奴隷制度を正式に制定した。可決した法律にはこう書かれていた。奴隷となった黒人女性が生んだ子供もまた、全て永遠に奴隷になると宣言され、歴史家のカサンドラ・ニュービー・アレギサンダーは、「奴隷制度はアメリカ経済にとって非常に大きく、非常に重要で、それはアメリカの(他の)産業をすべて足し合わせたものよりも高く評価されるほどでした」と話していたそうだ。つまり新国家アメリカは、奴隷制度とともに発展し、北東部の州であるロードアイランド州の初期の白人議員たちはそれで財をなし、アメリカの新国家は奴隷とともに発展したものの、合衆国の奴隷制度が終了したといわれる1863年以降も、黒人たちの社会的な位置を、「白人」たちは放置した。1960年代のキング牧師の台頭も、暗殺によって中断し、いまでも多くのアフロ・アメリカンは、一部の社会的な成功者(スポーツ、エンターテイメント)を除いては、1980年代~90年代になっても抑圧されている。勿論、一部の成功者の黒人たちは、多少はその恩恵を受けたが、それが眩い光としてメディアで増幅されて広く伝わることの影に、蓋し過去から変わることのない闇が現在も存在している。それはタイガーウッズや、オバマ大統領が誕生しても、まだアメリカのなかには、文化的遺伝子として継承されているのだろう。なぜなら、そもそも黒人は奴隷であり、それが国の富を産み出したからだ。しかし奴隷解放以降は、「白人」社会にとっては、処分できない負債だったのだ。

私たち日本人は、その現実に対して、他国への内政の問題であるから沈黙するべきなのであろうか。それとも、何か声をあげるべきであるのだろうか。私にはその答えはわからない。

それでも現状の著しい世界における富の格差と、同時に「生資本」(消費者)としての価値しかなく、社会的立場も、声もあげることができず、消費社会の船底で生きていくのは、蓋し、近未来の「日本人」も同じことかもしれない。いまや労働は「奴隷」でなく「機械」に。そうであるならば、経済・政治システムにとって無用な民の存在は、「生資本」として以外の価値はないだろう。古いシステムと未来のシステムの狭間で、彼は無残に死んだのだと思う。

冥福を祈りたい。

 

 

 

 

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