ピュイサンスとしての NEO-SHUNGA ― スピノザとラカンのあいだで

私たちは、かつてないほど大量の画像に囲まれて生きている。

写真、映像、SNS、そしてAI。欲望を刺激するイメージは、アルゴリズムによって絶え間なく生成され、複製され、流通している。しかし、その膨大な情報量にもかかわらず、人間の欲望が満たされているようには見えない。むしろ、画像が増えるほど、私たちは何かを失っているようにも感じられる。

NEO-SHUNGAは、この状況に対する一つの問いである。

江戸時代の春画を現代のAIとNFTというメディアによって再解釈するこのプロジェクトは、単に伝統をデジタル化する試みではない。それは、欲望とは何か、創造とは何か、そして画像とは何を生み出すものなのかを改めて考えるための哲学的実験である。

十七世紀の哲学者スピノザは、人間を「欲望する存在」と考えた。しかし彼にとって欲望とは、何かが欠けているから生まれるものではなかった。欲望とは、生きることそのものが自らを拡張しようとする力であり、その力を彼は**ピュイサンス(puissance)**と呼んだ。

ピュイサンスとは、権力ではない。他人を支配する能力でもない。それは、自らが存在し、行為し、新たな関係を結び、新しい世界を生み出していく力である。喜びとは、この力が増大する状態であり、芸術とは、その増大を可能にする装置である。

この視点から見れば、江戸時代の春画は単なる性愛表現ではない。

そこには笑いがあり、遊びがあり、夫婦や恋人だけでなく、人間そのものへの祝福がある。身体は罪ではなく生命の歓びとして描かれ、欲望は共同体の中で肯定される。春画は、生を縮減するものではなく、生の力を増幅するイメージだった。

一方、二十世紀の精神分析家ジャック・ラカンは、欲望をまったく異なる角度から捉えた。

人は対象そのものを欲しているのではない。人が欲しているのは、決して満たされることのない「欠如」である。どれほど多くのものを手に入れても、欲望は新しい対象へと移り続ける。ラカンは、その限界を超えてしまう過剰な快楽を**ジュイサンス(jouissance)**と呼んだ。

今日のインターネットは、このジュイサンスを無限に生産する巨大な機械になっている。

画像は際限なく生成され、スクロールされ、消費される。しかし、その過程で欲望は充足されるどころか、さらに空虚さを深めていく。AIは数百万枚の画像を生成できるが、その膨大なデータ量が人間の創造性を保証するわけではない。むしろ、画像が増えるほど、一枚の画像が持っていた意味や密度は希薄になっていく。

NEO-SHUNGAは、この状況に対して逆方向から応答する。

私たちはAIを使って画像を大量生産したいのではない。むしろ、最小限の情報から最大限の想像力を呼び起こすことを目指している。

江戸時代の春画が限られた紙面と線描によって豊かな世界を立ち上げたように、AIという現代のメディアを用いながらも、情報の量ではなく、意味の密度を追求したいと考えている。

ここでNFTという技術も重要な意味を持つ。

NFTは単なる所有権の証明ではない。それは、一つのイメージに固有性を与え、デジタル空間においても作品と鑑賞者との固有の関係を生み出すための技術である。複製が無限に可能な時代だからこそ、一つの作品との出会いをもう一度固有の経験として取り戻すことができる。

NEO-SHUNGAにおけるエロスとは、性的刺激ではない。

それは、人間が世界と結びつき、新しい意味を生み出し、自らの存在を更新していく根源的なエネルギーである。

この意味で、春画はポルノグラフィとは異なる。ポルノグラフィが欲望を消費させる装置であるならば、春画は欲望を創造へと変換する装置である。

そしてNEO-SHUNGAもまた、その延長線上にある。

AI時代において私たちが必要としているのは、より多くの画像ではない。より高性能なアルゴリズムでもない。

必要なのは、画像が再び人間の想像力を解放することである。

ラカンが語った「欠如としての欲望」は、現代社会において極限まで増幅されている。しかし、その欲望を消費の循環へ閉じ込めるのではなく、創造へと転換することは可能ではないだろうか。

NEO-SHUNGAは、その可能性を探る試みである。

欲望を満たすためではなく、欲望によって世界を新たに編集するために。

スピノザの言葉を借りれば、それは人間のピュイサンス――存在し、行為し、創造する力――を回復するための芸術である。

AIが画像を生み出す時代だからこそ、芸術は情報量を競うのではなく、人間の存在能力をいかに増大させるかを問い直さなければならない。

NEO-SHUNGAは、その問いに対する一つの応答である。

NEO-SHUNGA as Puissance Between Spinoza and Lacan

We live surrounded by an unprecedented abundance of images.

Photography, cinema, social media, and now artificial intelligence continuously generate, reproduce, and circulate images designed to capture our attention and stimulate desire. Yet despite this overwhelming proliferation, it is difficult to say that human desire has become any more fulfilled. On the contrary, the more images we consume, the more something essential seems to disappear.

NEO-SHUNGA begins with this paradox.

By reinterpreting the erotic woodblock prints (shunga) of Edo-period Japan through the contemporary media of AI and NFTs, this project is not merely digitizing a historical art form. Rather, it asks a more fundamental question: What is desire? What is creativity? And what kind of force can an image still possess in the age of artificial intelligence?

The seventeenth-century philosopher Baruch Spinoza understood the human being as a creature of desire. Yet for Spinoza, desire was never defined by lack. Desire was the very movement through which life seeks to expand itself. He called this power puissance—the capacity to exist, to act, and to increase one’s ability to affect and be affected.

Puissance is not domination. It is not power over others.

It is the capacity to create new relationships, to transform reality, and to enlarge the possibilities of existence itself. Joy, for Spinoza, is the increase of this capacity. Art, therefore, is not simply representation; it is a machine for amplifying life.

Seen from this perspective, Edo-period shunga was never merely erotic imagery.

Its world is filled with laughter, playfulness, tenderness, and vitality. The body is celebrated rather than condemned, and desire appears not as sin but as an affirmation of life itself. Shunga expands human experience rather than reducing it. It is an image of living energy.

The twentieth-century psychoanalyst Jacques Lacan, however, approached desire from an entirely different direction.

For Lacan, desire is born not from fulfillment but from lack. Human beings do not ultimately desire objects themselves; they desire what always escapes them. Every satisfaction simply redirects desire toward another object. Lacan called the excessive enjoyment that exceeds ordinary pleasure jouissance.

The contemporary internet has become an immense machine for producing jouissance.

Images appear endlessly, scroll endlessly, and disappear endlessly. Yet this infinite circulation rarely satisfies desire. Instead, it multiplies absence. Artificial intelligence may generate millions of images, but quantity alone does not produce meaning. On the contrary, the more images accumulate, the more each individual image risks losing its density, singularity, and imaginative force.

NEO-SHUNGA proposes another possibility.

Our aim is not to use AI to manufacture an endless stream of images. Rather, we seek to evoke the greatest possible imaginative world from the smallest possible amount of information.

Just as Edo-period shunga constructed astonishing emotional and symbolic universes through the economy of line and composition, NEO-SHUNGA employs contemporary digital technology not to maximize information, but to maximize meaning.

Within this framework, NFTs acquire a significance beyond ownership or authentication.

An NFT restores singularity to the digital image. In an environment where perfect reproduction has become effortless, it allows each encounter between artwork and viewer to recover something of the uniqueness traditionally associated with physical works of art.

The eros explored by NEO-SHUNGA is therefore not erotic stimulation.

It is the fundamental energy through which human beings establish relationships with the world, generate meaning, and continually recreate themselves.

In this sense, shunga differs profoundly from pornography.

Where pornography functions primarily as a mechanism for the consumption of desire, shunga transforms desire into creativity.

NEO-SHUNGA seeks to continue that tradition.

What the age of artificial intelligence requires is not a greater quantity of images, nor increasingly sophisticated algorithms.

What it requires is the recovery of the image as a catalyst for human imagination.

Lacan’s conception of desire as lack has become amplified within our digital culture. Yet perhaps desire need not remain trapped within endless cycles of consumption. Perhaps it can once again become a force of creation.

NEO-SHUNGA is an exploration of that possibility.

It does not seek to satisfy desire.

It seeks to transform desire into a means of reimagining and re-editing the world.

Borrowing Spinoza’s language, NEO-SHUNGA is an attempt to recover puissance—the human capacity to exist, to act, and to create.

In an age when artificial intelligence can generate images without limit, the essential question for art is no longer how many images can be produced, but how an image might once again increase our capacity for existence.

NEO-SHUNGA is one possible answer to that question.

現実そのものには「美」は存在しない。美とは、主体が象徴界へ接続したときにのみ立ち現れる。

人間は、象徴を模倣することで社会を維持している。

男らしさ、女らしさ、知性、成功、若さ、美しさ——それらはすべて、どこかで見た断片を反復しながら成立している。広告、映画、SNS、文学、恋愛、政治、宗教。われわれは「本物」を生きているつもりで、実際には象徴のかけらを寄せ集め、自分という演出をかろうじて保っている。しかしその構造は、驚くほど脆い。

最近、VRやアバター、バ美肉(バーチャル美少女受肉)文化について考えていた。男性が美少女アバターを纏い、女性的な声や所作を獲得し、ネット空間で「存在」していく文化である。そこではしばしば、「身体は編集可能だ」「性別は流動的だ」という言説が現れる。だが私は、その種の議論にどこか浅薄さを感じていた。なぜなら、現実の身体はそんなに自由ではないからだ。

私は能喜多流で稽古を受け、東北(和泉式部の霊)の仕舞を舞ったこともある。しかしだからといって、「女性になった」と感じたことは一度もない。観客からどう見えるか、型としてどう成立するか、ただそれだけのことだ。能は、主体を女性化する芸能ではない。むしろ逆に、主体を消していく芸能である。自分の感情やアイデンティティを膨らませるのではなく、型へ沈めていく。だからこそ、現代の「異性を演じること」と「異性になること」を混同する風潮には、強い違和感を覚える。

もちろん、男が夢想する女性像と、現実の女性が乖離しているという指摘には一理ある。広告やメディアが再生産する「女性らしさ」を、生身の人間が維持するのは極めて難しい。若さ、美貌、愛嬌、柔らかさ、性的魅力——それらを高度に保ち続けるには、膨大な労力とコストが必要になる。銀座のホステスやアイドル、女優、インフルエンサーなどは、ある意味で「女性性維持労働」の専門家といえるだろう。しかし現実の人間は老いる。疲れる。病む。怒る。摩耗する。街を歩くおばさんたちが広告の中の「女性らしさ」を体現していないのは、ごく当たり前のことだ。むしろ、現実身体の方がリアルだからだ。

だが現代では、その関係に逆転が起きている。現実の女性よりも、アニメやアバター、AI生成画像の方が「女性らしい」と感じられる瞬間がある。そこには老化も、生殖も、労働疲労も、重力も存在しない。つまり、現実身体のコストを切断した「純粋女性記号」が流通しているのだ。バ美肉文化の興味深い点もここにある。多くの場合、それは現実女性への接近ではない。むしろ、「男性が夢想する女性記号」への接続である。巨大な瞳、高い声、永遠の若さ、従順さ、可愛らしさ。しかしそれは「女性そのもの」ではない。現実の女性は、生理もあれば、加齢もあれば、社会的暴力や労働も抱えている。アニメ的女性像は、その生々しい現実を削ぎ落とした後に残る、抽象化された記号に過ぎない。

だが、ここでさらに重要なのは、ネットや書物やVR空間などの象徴界と、リアルな世界とは別次元だということである。最近の議論では、「身体も社会構築物だ」という方向へ流れがちだ。しかし、現実の身体はそんなに柔らかくない。老化、重力、疲労、病気、死——身体は、象徴を裏切り続ける。だから私は、VRやアバター文化に対して「現実を編集できる」という万能感を感じるたび、奇妙な死臭を嗅ぎ取ってしまう。

ここで言う死臭とは、腐敗臭ではない。むしろ逆である。完璧すぎるもの、劣化しないもの、時間が沈殿していないものから漂う臭いだ。AI画像の完璧な笑顔、永遠に若い顔、ノイズのない声、均質化された可愛さ、最適化された人格。それらは最初、美しく見える。しかし長く見ていると、どこか「生きていない」のだ。なぜなら、生とは本来、ノイズだからである。疲れ、ズレ、失敗、老い、崩れ。そうしたものを通過した身体にしか、生の厚みは宿らない。

私は、人の顔や所作に残る「吹き溜まり」のような痕跡を、しばしば見ることがある。長年の接客で染みついた愛想笑い。疲労が沈んだ肩。諦念と虚栄が混じった歩き方。見栄と敗北が同時に刻まれた目。そこには、人が長年「何か」を模倣し続けた痕跡が残っている。男らしさ、女らしさ、成功者、知識人、母親、父親。誰も完全にはなれない象徴を、人生をかけて演じ続け、その劣化が顔に沈殿していく。そこに哀れを感じる。しかし同時に、それが「生」なのだとも思う。

美学が危険なのは、この現実の摩耗を嫌悪し始めるからだ。優生学やファシズムは、その典型だろう。健康、若さ、純粋性、整った身体——そうした「美」が政治と結びつくと、老いや障害や醜さは排除の対象になる。人の弱さが集団化し、美しい共同幻想へ接続していくのだ。現代のSNSも、構造的には似ている。フィルターで加工された顔、最適化されたライフスタイル、清潔な空間、理想化された人格。現実身体への嫌悪が、静かに共有されている。

だが、人は完全には騙されない。違和感に、すぐ気づく。なぜなら、人は「美そのもの」ではなく、「現実を通過した美」を見ているからだ。本当に深い美には、必ず死の影がある。

能が面白いのは、面(仮面)をつけながら、なお死を隠し切らないところだ。面は固定されている。しかし、老いた身体、摩耗した声、呼吸、間、重心が、その奥から滲み出る。つまり能は、象徴を象徴として扱う芸能である。だからこそ、逆に深いのだ。

現代は、象徴を現実そのものとして扱い始めている。しかし、リアルな世界は別次元だ。身体は、最後まで象徴を裏切る。そして、その裏切りの痕跡にこそ、生は宿っているのだと思う。

現実の編集権——盲帝と分散する玉座

吉川英治の三国志を読みつつ、思ったところを書いてみる。

後漢末期、王朝の統治はすでに深い腐食の中にあった。その象徴的存在が、霊帝である。彼の治世は名目上こそ皇帝による支配であったが、実際の権力は宮廷内の宦官勢力、とりわけ十常侍と呼ばれる一団に握られていた。

十常侍とは、皇帝の側近として仕える宦官たちの中でも、特に強い影響力を持った者たちを指す。彼らは人事や財政、情報の流通に深く関与し、官僚機構を迂回して直接的に政治を動かす力を持っていた。地方で何が起きているのか、誰が忠実で誰が反抗的なのか——そうした報告はすべて彼らの手を経由して皇帝に届けられる。だがその情報は、必ずしも事実そのままではない。彼らに都合のよい形に選別され、加工され、時には意図的に歪められていた。結果として霊帝は、現実を直接認識することができない構造の中に置かれていたのである。彼が見ていたのは、世界そのものではなく、すでに整えられた「世界の像」だった。十常侍にとって皇帝とは、統治者であると同時に、操作可能な存在でもあった。後世の史書が彼を「盲帝」と評するのは、このような状況を指している。

この構図は、単なる古代史の一挿話にとどまらない。ここには、権力のより本質的な問題が潜んでいる。すなわち、「何が現実として認識されるのか」を決定する力である。「現実の編集権」という言葉を中心に据えるとき、私たちは単に情報の流通やメディアの影響力を論じているのではない。問題はもっと深い。何が「現実」として知覚されるのか、その編成そのものをめぐる権力について語ろうとしているのだ。

霊帝の事例に戻れば、報告は選別され、言葉は装飾され、不都合な事実は削除される。その結果、彼にとっての現実は、すでに編集された後のものでしかなかった。ここで重要なのは、彼が愚かであったかどうかではない。彼の認識の回路そのものが、外部によって構造的に規定されていたという点である。このとき十常侍が握っていたのは、単なる権力ではない。彼らが支配していたのは、「現実の編集権」だった。

現代に目を移すと、この構造は消滅したどころか、むしろ精緻化している。ニュースは編集され、アルゴリズムは選別し、広告は意味を付与し、ソーシャルメディアは感情の強度によって情報の可視性を増幅する。私たちが触れている「現実」は、未加工の素材ではなく、複数のフィルターを通過した後の生成物にほかならない。

しかし、ここで単純な陰謀論に回収されるべきではない。現代の「十常侍」は単一の主体ではないからだ。国家でもなければ、企業だけでもない。むしろそれは、メディア、プラットフォーム、政治、そして私たち自身の選好や欲望が織りなす、分散的な構造である。言い換えれば、「現実の編集権」は特定の誰かが独占しているのではなく、複数の力が競合しながら暫定的に形成されている。それでもなお、この権力が本質的であることに変わりはない。なぜなら、人間は「与えられた現実」の外側で思考することができないからだ。何を問題とし、何を無視し、何に怒り、何に共感するか——そのすべては、すでに編集された現実の内部で起こる。ここにおいて、編集とは単なる加工ではなく、認識の地平そのものを規定する行為となる。

民主主義において、市民は主権者であると同時に、この編集された現実の受け手でもある。この二重性は決定的だ。霊帝が「知らされなかった存在」であったのに対し、市民は「選びうる存在」である。だがその選択は、常にすでに編集された選択肢の中で行われる。完全に自由な視点など存在しない。ここで問われるべきは、「誰が編集しているのか」だけではない。「どのような編集に自らを委ねているのか」という、自己の関与である。

たとえば、強い言葉だけが流通する空間に身を置けば、現実は過剰に対立的なものとして立ち現れる。逆に、整えられた専門的情報だけに触れれば、現実は過度に合理的で摩擦のないものとして見えるだろう。どちらも現実の一部ではあるが、同時に偏った像でもある。私たちは、自らの接続する回路によって、それぞれ異なる現実を生きているのだ。

この意味で、現代の問題は「盲目」であることではない。むしろ、「見えていると思い込むこと」にある。霊帝は盲帝であったがゆえに問題だったのではない。彼は、自らが見ているものを現実そのものだと信じていた。その確信こそが、権力の暴走を可能にしたのである。現代の市民もまた、同様の危うさの中にある。情報にアクセスできることと、現実を理解していることは同義ではない。むしろ情報の過剰は、編集の不可視性をかえって高める。何が削除され、何が強調されているのかが見えなくなるとき、編集権は最も強く作用するのだ。

では、この構造から完全に自由になることは可能なのか。おそらく不可能だろう。人間が言語と象徴の中でしか世界を把握できない以上、何らかの編集を免れることはできない。それでもなお、態度の問題は残る。複数の現実に触れようとすること。自らの見ているものが編集された像にすぎない可能性を、常に保留すること。そして、自分がいま、どの編集に加担しているのかを引き受けること——少なくとも、それだけはできる。

「現実の編集権」は、もはや宮廷の奥に隠された特権ではない。それは分散し、拡張し、私たち一人ひとりの手の中にまで降りてきている。だからこそ、その扱い方は、かつてよりもはるかに倫理的な問題となった。玉座は消えた。しかし壇上は残っている。そして私たちは、観客であると同時に、すでにその上に立っているのである。

詩人・谷川俊太郎の残した書斎へ。

詩人・谷川俊太郎の名前を知ったのは、ピーナッツの単行本の翻訳だった。スヌーピーが有名な単行本のなかに谷川俊太郎の名があって、アメリカ文化の紹介者のような印象を受けたのは、1970年代のことだった。

その後、しばらくは彼を忘れていたけれども、僕も勤めていたことのある米国の広告代理店のテレビ広告で、この詩が取り上げられた時に、詩人の名前を再度思い出した。

「朝のリレー」  - 谷川俊太郎 -

カムチャツカの若者がきりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女がほほえみながら寝返りをうつとき
ローマの少年は柱頭を染める朝陽にウインクする

この地球ではいつもどこかで朝がはじまっている

ぼくらは朝をリレーするのだ

経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る

眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴っている

それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

そのくらいの繋がりしか記憶の中にはなかったのだが、縁があって、北軽井沢にある書斎を拝見できた。まだ寒い四月の北軽井沢には、しっかり冬の気配が漂っていた。いつもはiPhoneでの写真で間に合わすのだけれども、ライカのQ2でしっかり写真を残してみた。

椅子に遺したままの服、本、郵便物が残っていて、電気は母屋から断線している。その静謐な空間、鼻腔に来る冬の匂い。

詩人が父の代から過ごした土地には、なにとも言えない詩情が残っていた。

「定住する母権——ノマド資本主義への思想的応答」

1章:序論――ノマドの自由という罠

「自由」はいつから、これほど暴力的な言葉になったのだろうか。

かつて「ノマド」という語は、ドゥルーズ=ガタリの思想において、国家や制度、固定化された主体性に対抗する概念として提示された。それは、中心なき運動、コード化を拒む逃走線、流動と差異を尊ぶ解放的象徴であった。ノマド的であることは、「支配」や「所有」に抗し、「なにものにも回収されない生」を希求することであり、近代的主体の輪郭に亀裂を入れるラディカルな思想的企てだった。

だが21世紀の現在、ノマドという言葉は様相を一変させている。「デジタルノマド」「グローバル人材」「ボーダーレス社会」など、移動を是とし、どこにも根ざさず、すべてを選択可能とするライフスタイルは、現代資本主義においてむしろ称揚され、祝福されている。だが、その自由は果たして実体を持つのか。それは「選択」の名を借りた生存戦略ではなく、「選択肢からの退路を断たれた存在」の美化にすぎないのではないか。

本稿が問題にするのは、まさにこの点である。すなわち「ノマド的自由」という一見開放的な理想が、いかにしてグローバル資本主義と結託し、「定住」や「共同体」や「他者との関係性」を否認し、搾取と孤立の構造に人間を封じ込めてきたのか、ということである。

ノマドはもはや、逃走者でも異端者でもない。むしろ、資本の側がもっともノマド的であり、もっとも脱領土化され、もっとも無責任である。プライベートファンド、クラウドベースの多国籍企業、タックスヘイブンを駆使する投資体――それらは場所を持たず、労働力にも税にも法にも縛られない。そしてその論理は、デジタルノマドと称する労働者にも共振している。根なし草のように都市間を漂い、アルゴリズムに管理される収入に依存し、医療も教育もコミュニティも持たぬまま、「個人として生きること」が強いられている。

こうした状況において、あえて私たちは「定住」の倫理に立ち戻るべきではないだろうか。逃走することではなく、留まること。他者と空間を共有し、労働と生活をめぐる制約を受け入れながら、それでもなお相互扶助とケアに基づいた共同体を築くこと。その実践を思想として回復すること。それこそが、ノマド資本主義に対する最も根源的な抵抗ではないかと私は考える。

ここで提案したいのが、「母権共産社会」という構想である。これは、伝統的な意味での「女性支配」を意味しない。むしろ、資本主義が抑圧してきた「再生産」「ケア」「非合理性」「欠如の受容」などの母性的原理を中心に据えた社会のあり方である。そこでは、競争や拡大、所有といった父権的資本主義の価値が相対化され、相互扶助や生存の持続性といった価値が再評価される。

この構想は、単なる社会制度の提案ではない。それは、言語・無意識・倫理・空間・経済といった多領域にわたる価値転換を求める思想的実践であり、資本主義的近代を根底から問い直す哲学的プロジェクトである。

以下、本稿ではまず、ノマド思想の理論的系譜とそれが資本主義に回収されてきた過程を検証する(第2章)。ついで、ノマド資本の構造的暴力――とりわけプライベートファンドや脱法的な金融装置が国家や個人に及ぼす影響について考察する(第3章)。その上で、定住を倫理的に再構成する思想の可能性を、ドゥルーズ=ガタリ、デリダ、ラカンらの理論を援用しながら提示し(第4章)、最後に、母権的価値に基づいた脱資本主義的社会の構想を提言する(第5章)。

そして結語として、欠如を回避せず、むしろそれを引き受け、他者とともに生きる倫理としての「定住」が、いかにして資本主義以後の生の地平を切り拓くのかを論じたい。

2章:ノマド思想の系譜と変質

ノマドという概念は、現代思想において魅力的なイメージを担ってきた。とりわけジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、『千のプラトー』(1980年)において、ノマド的主体を「国家装置」や「領土国家」に抗する脱中心的存在として称揚した。彼らが提示するノマド論は、定住的で階層的な「樹状構造」に対して、根や中心を持たない「リゾーム」としての思考を象徴していた。ノマドはコード化を拒み、定義を攪乱し、国家による一元化を逃れる線的存在である。

こうした思想は、70年代以降のポスト構造主義の自由な気風と相まって、多くの芸術家や社会運動家に影響を与えた。固定的なアイデンティティに抵抗し、境界線を越え、自己を再帰的に生成する存在――それがノマドの理想像であった。フェミニズムにおいても、リュス・イリガライやジュディス・バトラーらが、身体や性のノマディズムを再解釈し、性差を絶対視する規範に揺さぶりをかけた。

しかし、21世紀に入り、この「ノマド」という語は危うい変質を遂げることになる。それは「思想的対抗概念」から、「制度的に歓迎される生き方」へと転落する過程である。デジタルノマド、フリーランス、パラレルワーカー、リモートネイティブ……かつて脱中心性の象徴であったノマドは、いまやグローバル資本主義の戦略的消費者/労働者として再構成されている。

この変質は偶然ではない。むしろ、資本の自己運動性にとってノマド的属性こそが都合よかったのである。企業は雇用を流動化し、インフラを持たずに展開し、労働力に責任を負わずに利益を最大化できるモデルを採用する。そのためには、固定的な共同体・国家・倫理に縛られないノマド的主体が必要だった。ノマド思想は、資本の手により反転され、制度の中に吸収されたのだ。

さらに深刻なのは、このノマド的存在が「主体の空洞化」と直結している点である。ラカン的な視点からいえば、主体は言語と象徴の網の目の中で「欠如」として構成される。欠如を抱え、他者との関係性において自己を生成する存在が人間である。しかし、資本主義が作り出すノマド的主体は、この欠如を否認する。どこにも属さず、いつでも接続され、すべてが選べるとされるこの「完全性」は、むしろ主体の喪失を意味する。

また、デリダの脱構築的ホスピタリティ論においても、ノマドと「他者」の関係性は重要な位置を占める。真のホスピタリティとは、予期せぬ他者を無条件で受け入れることだとデリダは言う。しかし、現代のノマドはどうか。他者を訪れるのではなく、他者を消費する――土地、文化、身体、労働力までもが移動の対象であり、責任なき接触の連鎖に過ぎない。これはもはや、倫理でも自由でもなく、従属の装置である。

したがって、本来解放の象徴であったノマドは、グローバル資本主義においてはむしろ「最も効率的に支配される主体」へと転倒している。資本はノマド的であると同時に、ノマドを再生産する。資本こそが最も流動的で、最も脱領土化され、最も抽象的な存在である。ノマド思想の核心が資本によって奪取されたこの状況において、もはや「逃走線」は解放ではなく、資本の運動線と重なってしまっている。

こうした状況下で、我々はあらためて「定住」の思想的意義を問い直す必要がある。逃走することよりも、引き受けること。空間や他者に対する責任を抱えること。母権的共同体の構想は、その「根ざし」の価値を再評価する試みである。定住とは、国家への回帰でも郷土主義でもない。それは、ケア、再生産、相互扶助といった「生の基盤」を思想の中心に据える営みである。

次章では、このようなノマド資本の暴力性、特にプライベートファンドやグローバル金融が国家や個人の生活空間をどのように侵食しているのかを検討する。

3章:ノマド資本の構造と暴力

近年、グローバルな資本移動の中核を担うのは、国家や土地に根ざさない「ノマド資本」である。かつて資本は、工場や土地、労働力といった物理的基盤に依存していた。しかし21世紀に入り、その基盤は一気に抽象化され、脱領土化された。とりわけ、プライベート・エクイティ(PE)ファンド、ヘッジファンド、ソブリン・ウィールズ・ファンド(国家系ファンド)などに代表される金融装置は、物理的制約を超えて国家の制度、地域の生活、個人の労働までをも収奪する機構となっている。

プライベートファンドの構造は特異である。それは一国の法制度に拘束されず、しばしばタックスヘイブンやオフショア口座を通じて多層的な匿名性を保持しながら、企業やインフラ、さらには公共資源に対して投資=買収を行う。そしてそれは単なる投資ではない。多くの場合、短期的利益を目的として企業の分割・リストラ・設備売却を実行し、雇用を破壊し、地域経済を空洞化させたのち、利益だけを回収して撤退する。このような「バイアウト型資本」は、ノマド的であるがゆえに、いかなる倫理的責任も社会的持続性も負わない。

さらに問題なのは、これらノマド資本が国家の統治能力そのものを侵食している点である。財政危機に陥った国家は、IMFや世界銀行の構造調整プログラムのもと、社会保障や公営企業の民営化を迫られる。水道、電力、教育、交通など、かつては市民の共有財産とされたインフラが、外資系ファンドの手に渡る事例は枚挙に暇がない。ギリシャ危機後の公共財売却、アルゼンチンの電力インフラの民営化、東南アジア諸国の交通網の外資支配など、それらはもはや「投資」ではなく、「略奪」と呼ぶべきである。

こうした構造の中で、「国家」はもはや市民の生活を支える装置ではなく、「投資可能性のある経済体」として再編されている。国民は「人間資本(human capital)」として評価され、年齢、教育歴、所得ポテンシャルといった指標で市場化される。住宅ローン、学資ローン、生命保険――これらはすべて、将来収益を担保にした「個人信用装置」であり、個人の身体と時間はすでに金融の対象となっている。

このような資本の振る舞いは、ラカン的視点から見ると、「欠如を否認するサディズム」として捉えられる。主体とは、本来「欠如」を抱えた存在である。ラカンによれば、欲望とは決して充足されないものであり、言語によって構造化された象徴秩序のなかで、人間は常に「何かが足りない」状態を生きる。しかし、資本はこの構造に真っ向から反する。「すべてを手に入れられる」「すべてを計算できる」という幻想を売りにし、欠如を否認し、享楽(jouissance)の全面展開を行う。

その果てに待つのは、人間の全商品化である。資本は、もはやモノだけでなく、「関係性」「感情」「時間」「予測」をも取引対象に変える。ケアワーカーや保育士の労働はAIと計測装置に置き換えられ、恋愛や性もプラットフォーム上のスコアとして市場に載せられる。アルゴリズムは、何を「好きになるべきか」「評価するべきか」を先回りして演算する。

つまり、ノマド資本とは、物理的な力の行使を必要としない、きわめて抽象的な暴力である。法を超え、場所を持たず、数式とコードによって世界を組み替えるこの装置は、従来の権力よりも遥かに非人格的で、しかも不可視である。

このような資本主義の形態に対して、いま私たちが取るべき態度とは何か。それは単なる制度改革や法規制では足りない。むしろ、「根ざすこと」そのものが抵抗であり、「責任を持つこと」「他者と応答すること」が、資本に対する倫理的反抗の最前線になるのではないか。

次章では、こうした資本主義的脱領土化に抗する思想として、「定住」――すなわち、土地・共同体・他者との関係性に根差した存在の再構築――について検討する。

4章:定住という倫理的再構築

「定住」という言葉は、現代においてしばしば時代遅れの、保守的で閉鎖的な価値観と見なされがちである。国境や共同体、伝統的生活様式を賛美する語として、ナショナリズムや排外主義と結びつけて理解されることが少なくない。しかし、本稿でいう「定住」はそのような血縁主義的な郷土観を意味しない。それはむしろ、資本主義的ノマディズム=責任なき流動性に抗して、「関係性にとどまること」「制約を受け入れた上で応答すること」としての倫理的実践である。

定住とは、単に同じ場所に住み続けることではない。それは、空間との関係を深く編み直し、自然・他者・歴史といった複数の時間軸を引き受ける態度のことを指す。たとえば、土を耕すという行為は、即効的な収穫を求める資本の時間とは異なる。そこには土壌、気候、風土といった不可制御な要素が含まれ、自然への忍耐と共感が求められる。これは、予測と制御を至上とする資本主義に対する根源的な異議申し立てである。

哲学的に言えば、定住とは「欠如を抱えた存在として、他者とともにあること」だ。ラカン的に言えば、我々は常に象徴界=言語の秩序の中で、何かを失いながら生きている。「すべてを持っている主体」など存在しない。だからこそ、他者を必要とし、応答を行い、社会的な関係を築いていく。ノマド的資本主義は、この欠如を否認し、完全性の幻想を提供することで主体を宙吊りにする。しかし、定住的主体は、むしろその「足りなさ」にこそ価値を見出し、共同性を構築する基盤とする。

ここで注目すべきは、イヴァン・イリイチの提唱した「共通資源(commons)」という思想である。彼は、産業化と制度化によって破壊された自律的な生活圏の再生を訴え、地域に根ざした教育、医療、労働のあり方を提唱した。イリイチにとって、真の自由とは「制限のなかでの選択」であり、定住はそのための倫理的・物理的前提であった。ここでいう定住は、「逃げないこと」「地域とともに悩むこと」「再生産を担うこと」といった、ケア的価値の具現である。

また、マレー・ブックチンの「社会的エコロジー」も、定住という思想の深化に資する。彼は、エコロジーを単なる自然保護の問題にとどめず、生活空間と政治空間を再統合する試みとして捉えた。ブックチンにとって、「自治」は自然環境と都市生活を調和させる実践であり、それは一過性の運動ではなく、定住に根差した構造的変革であった。つまり、エコロジー的社会とは、モビリティと利潤ではなく、「暮らし」と「関係」を優先する構造への転換を意味する。

さらに、デリダが晩年に論じた「ホスピタリティ(歓待)」の思想も参照されるべきだろう。彼は、「他者に対して開かれた家(場所)」をホスピタリティの理想とし、見知らぬ他者を迎え入れる定住空間の倫理を重視した。このホスピタリティは、無条件であると同時に、他者を迎える責任を前提とする。「定住」とは、閉じこもることではなく、むしろ「他者に開かれた応答責任の空間」である。

このように考えると、定住は決して保守主義的ではない。むしろ、ノマド資本主義の非倫理性に対して、他者との関係性を根底から問い直す急進的実践である。居住すること、育てること、支えること、引き受けること――それらはすべて、資本主義が「非生産的」として切り捨ててきた価値の回復にほかならない。

そして、この定住的倫理は、「母性」と深く結びつく。母性的とは、女性であることではなく、「育むこと」「時間をかけること」「他者を中心に置くこと」といった倫理的性格である。ここに、次章で論じる「母権共産社会」という構想の根幹がある。

次章では、資本主義に否定されてきた母性的価値を社会構造の中心に据えた思想的提案として、「母権共産社会」の可能性を提示したい。

5章:母権共産社会という思想的構想

「母権共産社会」という語は、多くの読者にとって耳慣れないものだろう。それは、伝統的な共産主義でも、単なるフェミニズムでもない。むしろ、本稿で提案するこの概念は、資本主義によって抑圧され、軽視されてきた「母性的原理」を倫理・経済・社会の中心に据えなおすことで、新たな共同体の可能性を思想的に構想しようとする試みである。

まず、「母性」をあらかじめ誤解から救い出す必要がある。ここでいう母性は、決して生物学的な性別や家族制度に閉じられた概念ではない。それは「ケア(care)」「再生産(reproduction)」「関係性(relationality)」「持続性(sustainability)」といった価値群を象徴する文化的・倫理的原理である。この原理は、20世紀的な「生産と拡大の経済」=父権的資本主義の論理に対し、根源的な批判と対抗の契機を内包している。

資本主義は、成長、競争、利潤、効率を価値の基盤とするが、それは常に誰かの「無償のケア」を搾取することで成り立ってきた。家事、育児、介護、情緒的労働――それらは女性に押しつけられ、見えない労働として資本の外部に追いやられてきた。ナンシー・フレイザーが指摘するように、資本主義は常に「ケアの不均衡」を前提として展開される体制であり、この矛盾を抜きにしていかなる経済成長も存在しない。

母権共産社会とは、この「不可視化されたケアの空間」を社会の中心に戻す思想である。そこでは、再生産が単なる個人の私事ではなく、社会的・経済的基盤として位置づけられ、ケア労働は無償の献身ではなく、共有される責任として制度化される。たとえば、地域ごとの共同保育所、ケア・コモンズ、ベーシック・ケア・インカムなどがその制度的形態となるだろう。生産から再生産へ。個人から相互依存へ。資本から関係へ――それが母権的価値転換の方向性である。

また、この構想においては、「欠如」が肯定される。ラカン的に言えば、母とは「他者としての欠如」を抱えた存在であり、その不完全性ゆえに関係性を育む空間を開く。資本主義が提供するのは、常に「充足」の幻想である。より高い収入、より大きな消費、より速い成果。それに対して母権的社会は、「不完全なまま共にあること」「手を差し伸べること」「時間をかけること」を価値とする。そこでは、「育つこと」や「支えること」が、政治的行為となる。

ここで、「共産社会」という語に込めた意味も重要である。マルクス主義の古典的な共産社会像は、生産手段の共有、労働の協同、階級なき社会を掲げていた。しかし本稿が提案するのは、そうした生産中心主義の脱構築でもある。むしろ、「共(とも)に産む」「共に育てる」「共に生きる」という、もっと根源的で生活的な意味での「共産」を想定している。それは、近代的な労働=生産概念の再定義であり、生活世界を回復する政治的想像力である。

さらに、母権共産社会は、国家や家族といった近代制度の「再編」も意味する。国家は市民を統治する中心ではなく、共生の基盤を支える調整装置へと変化する必要がある。家族は血縁を超え、ケアと関係性によって編成される「選択的共同体」として再構成される。単身高齢者、非婚育児など、現代社会において不可避となった多様な生を包摂する新たな社会的単位が求められる。

この構想の根底には、「倫理的な定住」がある。他者とともに住まうこと、地域に根ざすこと、空間と時間の中で関係性を積み重ねること。それはノマド資本主義の流動性、加速性、抽象性とは対極にある。「留まること」にこそ倫理がある。逃げず、断ち切らず、育て、引き受け、手放す。そうした関係性のネットワークこそが、資本に回収されない人間性の最後の砦である。

母権共産社会とは、ユートピアでもファンタジーでもない。それはむしろ、すでに破綻しつつある資本主義的生活の中で、各所に断片的に芽生えている実践に名前を与える試みである。子育て支援の協同組合、地域医療の共助ネットワーク、食と住まいの自給循環圏。これらはすべて、母権共産社会の萌芽である。

次章では、こうした構想をもとに、「資本主義以後」の生の倫理をどのように構想しうるかを、結語として提示したい。

6章:結論――資本主義以後の生の倫理

資本主義は終わらない――そう繰り返し語られてきた。冷戦終結以降、世界は「唯一の経済モデル」としてグローバル資本主義を受け入れ、それ以外の選択肢は「非現実的」であるとされてきた。だが、果たして本当にそうだろうか。地球環境の崩壊、所得格差の拡大、メンタルヘルスの危機、地域社会の分断、再生産労働の崩壊。これらはすべて、「終わらない」とされた資本主義がもたらした末路である。

本稿で繰り返し示してきたように、ノマド的資本――すなわち、場所を持たず責任を取らない資本の流動性こそが、これらの問題の根幹にある。金融工学によって抽象化された資本は、もはやモノでも土地でもなく、記号と演算の網の目となり、人間の生活世界を解体し続けている。国家は投資先と化し、共同体は採算性で評価され、個人は「リスクと可能性の束」として処理される。人間が「数字」としてのみ生きる社会に、倫理は存在しうるのか。

その問いに対する本稿の応答が「定住する母権」である。すなわち、場所にとどまり、他者に応答し、時間をかけて関係を築くことを善とする価値転換である。これは、成長を至上とし、移動と加速によってすべてを更新し続ける資本主義に対して、真っ向から異議を唱える倫理的態度である。母権共産社会とは、ケア・再生産・欠如・共生といった価値を中心に据えた、人間存在のラディカルな再編を目指す思想である。

この倫理には、ラカン的な欠如の概念が深く関与している。私たちは、完全でも自足的でもない。むしろ、他者の欲望によって構成され、象徴秩序のなかで常に「足りなさ」とともに生きている。だからこそ、人は他者とともに生きるしかない。ノマド資本主義がこの欠如を否認し、「すべては可能である」とする幻想を振りまくとき、私たちはむしろ、「すべてではない」という限界を受け入れ、そこから関係性を紡ぎ直す必要がある。

同様に、ドゥルーズ=ガタリが提唱した「逃走線」や「脱領土化」も、本来は権力の中心に対抗する運動であった。しかし現代では、その力動が資本によって利用され、ノマド的生が商品化されている。もはや逃げること、動くことは抵抗ではない。むしろ、「とどまること」「ケアすること」「他者を迎え入れること」にこそ、現在のラディカルな政治性が宿っている。デリダが述べた「ホスピタリティ」とは、まさにそのような定住の倫理であり、他者とともにある空間への信頼である。

このような思想的転換は、抽象的な理論にとどまるものではない。実際に、世界各地では「資本主義以後」を模索する実践が始まっている。スペインのエコビレッジ、日本各地で起きている地域通貨や自給的生活圏の形成、ケア労働を再評価する社会運動。これらは小さな波である。が、それぞれが資本主義の論理とは異なる時間、倫理、関係性を育んでいる。母権共産社会とは、そうした点と点を思想として結びつける試みである。

資本主義は終わらない、と言われる。しかし、その「終わらなさ」は、思想的想像力を封じることによってしか維持されていない。未来を語る言語を奪い、「これしかない」と囁き続ける体制に対して、いま必要なのは「これではないかもしれない」という声である。

「定住する母権」という構想は、いまここで、私たちが呼吸し、生活し、他者と関係を結び直すための思想である。それは、制度よりも先に生きられるべき原理であり、政治よりも先に感受されるべき感性である。ノマド的資本がすべてを数字に還元する世界の果てで、なおも人間的なものが残るとすれば、それは育まれ、応答され、共有されたものだけである。

この小さな倫理の火を、思想として掲げていくこと――それが、本稿が目指す批評の仕事である。

ソニー×ホンダのEV「AFEELA」開発中止。このニュースをどう読むべきか。

単なる一企業のプロジェクト撤退として処理するなら、それはあまりにも浅い。むしろこれは、自動車産業という巨大システムの前提そのものが崩れ、再編に入ったことを示す象徴的な出来事である。まず、表層的な事実関係から整理しておく。ホンダはEV戦略を大幅に見直し、最大2.5兆円規模の減損を計上した。そして北米向けのEV3モデル、さらに「0シリーズ」と呼ばれる自社EVの中核プロジェクトを停止した。この判断により、同じ技術基盤を共有していたソニー・ホンダの合弁EV「AFEELA」は、構造的に成立しなくなった。量産直前まで進んでいたプロジェクトが、極めて短期間で白紙化された背景には、単なる意思決定の変更ではなく、「前提の消滅」がある。

では、その前提とは何か。それは「EVは不可逆的に成長する市場である」という認識である。この認識が崩れた。決定的だったのはアメリカの政策転換だ。ドナルド・トランプ 政権下で、EV普及を後押ししていた規制や制度が大幅に見直され、事実上の緩和・撤回が進んだ。これにより、EV投資の回収前提が崩れた。補助金と規制によって成立していた市場が、急速に「自立的な競争市場」へと戻されたのである。

その影響はホンダだけに留まらない。フォード、GM、ステランティス、フォルクスワーゲンなど、世界中の主要メーカーが相次いでEV事業の減損や縮小を発表している。これは個別企業の失敗ではなく、産業全体のシナリオ修正である。言い換えれば、「EVが正解」という時代は終わり、「EVも選択肢の一つに過ぎない」という段階に入った。

しかし、より本質的なのはここからだ。ホンダの意思決定の核心は、EVそのものではない。「何と戦うか」を再定義した点にある。

動画でも強調されていたが、ホンダが直面している最大の脅威は、中国メーカーである。BYDやジーリーといった企業は、電池、ソフトウェア、車体設計を統合し、「車をIT製品として再構築」している。さらに価格競争力が圧倒的に高い。これは単なる製品競争ではなく、産業モデルそのものの競争である。

現実の市場はすでに変化している。ASEANや中国では、日本車のシェアは急速に低下している。ホンダはかつて15%近いシェアを持っていた市場で、短期間のうちに半減させている。これは「将来の危機」ではない。すでに進行している現実だ。

この状況で、ホンダが選んだのは「EVを続けるか否か」ではない。「何を優先するか」である。EV開発は5年単位の投資である。しかし中国との競争は2〜3年で勝敗が決まる。ならば、まずは四輪事業そのものの競争力を再構築する必要がある。中途半端なEVを作るよりも、「勝てる車」を作ることが優先されるべきだという判断だ。

これは撤退ではない。戦略の再配置である。

さらにAFEELAというプロジェクト自体にも、構造的な課題が存在していた。価格は約9万ドルと高額であり、テスラや中国EVと比較した際の明確な優位性が見えにくかった。加えて、開発スピードや量産体制においても競争環境に対して遅れがあった。ソニーの持つエンターテインメント性やソフトウェア体験というコンセプトは魅力的であったが、それが「車としての価値」をどこまで上回るのかは不透明だった。理想は先行していたが、現実の市場との接続が弱かったと言える。

ここで視点を広げると、この出来事は「EVの失敗」ではない。むしろ「EVという言葉で覆い隠されていた競争の本質」が露出したと考えるべきだ。

中国の強さは個別技術ではない。構造にある。国家、産業、大学が一体となり、研究成果が即座に事業化される。地方政府は産業クラスターを競い合い、資本と人材を集中させる。そして電池というコア技術を押さえ、さらにソフトウェアと半導体で主導権を握ろうとしている。これは単なる「EVメーカー」ではない。総合的なテック産業である。

加えて、シャオミのような企業は、車をスマートフォンや家電と統合された「生活OS」の一部として位置付けている。ここではもはや、車単体の性能ではなく、体験全体が競争軸になる。これは従来の自動車産業とは全く異なるゲームである。

では、日本はどうか。遅れている、という表現は正確ではない。すでに一部の市場では敗北している。しかし同時に、日本はまだ基盤を持っている。トヨタのように多様な戦略でリスクを分散している企業もあれば、スズキのようにインド市場で強固なポジションを築いている企業もある。つまり、完全に敗北したわけではないが、「このままでは負ける」という地点に立っている。

その意味で、AFEELAの中止は終わりではない。むしろ、重要なのはここからである。ソニーとホンダは一度ゼロベースに戻った。これはリスクであると同時に、機会でもある。従来の自動車の延長線ではなく、モビリティそのものを再定義する余地が生まれた。

ソニーはエンターテインメントとソフトウェアの企業であり、ホンダはハードウェアと製造の企業である。この二つが本質的に融合するなら、「車」という形を超えた新しいプロダクトが生まれる可能性もある。それは単なるEVではなく、移動体験そのものの再設計かもしれない。

結局のところ、この問題はEVではない。産業の主導権を誰が握るのかという問題である。アメリカはルールを変え、中国は構造で勝ちに来ている。そして日本は、戦うべき相手と方法を再定義し始めたばかりだ。

ここで問われているのは技術ではない。市場でもない。
「どの戦場を選び、何を捨て、何に賭けるのか」という意思である。

その意思を持てるかどうか。それこそが、この時代の企業と国家の分岐点になっている。

アップルⅡからAIへ——3つの宇宙を横断した世代の記録

私たちの世代は、たぶん少し変わった仕方で機械と出会った。
いまのように、スマートフォンを指でなぞれば世界につながる時代ではない。もっと粗く、もっと不安定で、もっと身体的だった。けれど、そのぶんだけ、機械は単なる便利な道具ではなく、ひとつの異世界への入口だった。

小学生のころ、まず洗礼を受けたのはゲームセンターの光だった。ピンポン、ブロック崩し、インベーダーゲーム。白黒あるいは単純な色面で描かれた、きわめて抽象的な世界。しかしそこには、確かに宇宙があった。一本の線、ひとつの点、反復する敵の列。その単純な図形の運動に、私は現実とは別の秩序を見た。球は正確に跳ね返り、ブロックは法則に従って崩れ、インベーダーは無機質なリズムで迫ってくる。人間の感情とは無縁の、冷たい演算の美しさがあった。

あれは単なる遊びではなかったのだと思う。
世界は物語だけでできているのではなく、ルールでもできている。しかもそのルールは、目で見える。身体で覚えられる。その最初の衝撃が、アーケードゲームにはあった。

そのあと、渋谷の西武百貨店のパソコン売り場で見たアップルⅡは、さらに別種の衝撃だった。ゲームセンターの機械は完成品だった。そこにある世界は、すでに誰かが作ったものであり、私はその内部で遊ぶだけの存在だった。だがアップルⅡは違った。あれは「遊ぶもの」ではなく、「作れるもの」に見えた。画面に文字が出る。キーボードを叩けば反応する。命令を書けば、世界の側がそれに従う。あのとき感じたのは、たぶん驚きよりも先に、眩暈に近い感覚だった。世界の奥に、言葉で触れられる層がある。現実とは別に、命令によって生成される領域がある。その事実に、子どもながら震えたのだと思う。

アーケードゲームが「できあがった宇宙」だったとすれば、パソコンは「これから生成される宇宙」だった。そこでは消費者であるだけでは足りない。入力し、試し、失敗し、修正しなければならない。世界は向こうから完成した姿では来ない。こちらが呼び出さなければならない。

80年代初期の日本のパソコン雑誌には、そのための呪文が載っていた。I/O、ASCII、そして後にはベーマガ。雑誌の紙面にびっしりと並ぶソースコード、16進数の羅列、メモリアドレス。あれをひたすら打ち込む。いま思えば、途方もない時代である。書店で雑誌を買い、紙を見ながら手でプログラムを入力し、その果てにゲームやツールを再現する。たった一文字の誤りで動かない。どこが違うのか、目で追い、耳で確かめ、時には最初からやり直す。

それでも、あの苦労は苦痛だけではなかった。
むしろ、打ち込むことそのものが参加であり、創造だった。雑誌に印刷されたコードは、単なる情報ではない。紙の上の文字列が、こちらの指を通り、メモリに移され、やがて画面の上で動き始める。その変換の全過程に、自分の身体が介入していた。いまのようにダウンロードして終わりではない。コードは目で読み、手で運び、耳で監視するものだった。

カセットテープの記憶は、その身体性をさらに濃くしている。
データを保存し、あるいはロードするとき、あの「キー、ガー、ピー」という独特の音を聴いていた。あれはノイズではない。データそのものだった。いまでこそ情報は沈黙のまま流通するが、当時は情報が音になっていた。つまりプログラムは、視覚だけでなく聴覚にも属していたのである。ロードが止まっていないか、失敗しそうか、音で気配を読む。まるで機械の呼吸を聞いているようだった。私たちはコードを打ち込むだけでなく、機械の気分まで耳でうかがっていた。

そしてBLACK ONYXである。
あのゲームの衝撃は、いま振り返っても特別だ。アーケードゲームにはない物語性、空間性、持続性がそこにはあった。反射神経だけではなく、探索があり、蓄積があり、未知への恐れがあった。画面は粗い。表現も限られている。だが、だからこそ想像力が大きく働いた。ワイヤーフレームのダンジョンは、単に線で描かれた迷路ではなかった。そこには闇があり、奥行きがあり、自分の知らない領域が続いていた。

しかも私はフロッピーを持っていなかったから、テープでロードするしかなかった。二十分。失敗したらまた二十分。いまの感覚で言えば、ほとんど狂気に近い。だが当時、その時間は単なる待ち時間ではなかった。あれは儀式だったのだと思う。ゲームの世界に入る前に、こちらの時間を差し出さなければならない。すぐには始まらない。簡単には入れない。だからこそ、起動に成功して画面が立ち上がったとき、世界は重みを持って現れた。一回のプレイには、一回の人生のような切実さがあった。

やがてファミコンが出て、その儀式は終わった。
カートリッジを差し込めば、すぐに始まる。安定している。失敗しない。革命だった。間違いなく、あれは人類にとって正しい進歩だったと思う。だが同時に、そこで失われたものもあった。待つこと、備えること、失敗の恐怖、起動の重み。ゲームは儀式から消費へと変わった。世界に入るための通過儀礼が消え、世界は即座に開かれるものになった。それは幸福でもあり、どこかで軽さの始まりでもあった。

それから長い時間が経ち、いま私はAIと向き合っている。
ここで不思議な感覚に襲われることがある。最先端のはずのAIが、ときどきあの頃のパソコンに似て見えるのだ。もちろん技術的にはまったく違う。AIはテープロードしないし、16進ダンプを手で打ち込ませたりもしない。だが、未知のものにプロンプトを投げ、反応を待ち、うまくいかなければ言い方を変え、再試行する。その感覚の根には、昔とよく似たものが流れている。すなわち、こちらの言葉が機械の内部で変換され、思いがけないかたちで返ってくるという驚きである。

違うのは、当時が「人間が機械の言葉に近づく時代」だったのに対し、いまは「機械が人間の言葉に近づいてくる時代」だということだ。BASICやマシン語を学んだころ、私たちは機械に合わせて考えなければならなかった。短く、正確に、誤りなく。だがAIは逆に、人間の曖昧さや飛躍や比喩を、ある程度そのまま受け止めようとする。そこには大きな転換がある。けれども、根底にあるのは同じ対話の欲望ではないかと思う。未知の機械と向き合い、その向こうに新しい世界の輪郭を見ようとする欲望だ。

思えば私は、3つの宇宙を通ってきたのかもしれない。
最初はドットの宇宙。ピンポンやインベーダーの、図形と反射の世界。
次にコードの宇宙。アップルⅡやI/Oやマシン語が開いた、命令と生成の世界。
そしていま、言語の宇宙。AIと自然言語が交差し、言葉そのものが機械の内部で世界を作り始める時代。

この3つを連続したものとして生きた世代は、おそらくそう多くない。
だからこそ思う。AIは突然現れた断絶ではない。私にとってそれは、渋谷の西武でアップルⅡを見て震えたあの瞬間の、はるかな延長にある。あのとき、キーボードの向こうに別の世界があると直感した。いまもまた、画面の向こうに別の知性が立ち現れつつある。その驚きは新しい。だが同時に、どこか懐かしい。

結局、私たちはずっと同じものを見てきたのかもしれない。
機械そのものではない。
機械を通して開く、もうひとつの宇宙を。

サグラダ・ファミリア ―民衆の力と圧倒的なヴィジョン

35年前、はじめてこの聖堂を訪れたとき、外壁には落書きが残り、工事はどこか混沌としていた。巨大な未完の建築。観光地というより、終わらない実験場。あれが完成する日が来るのか――正直、信じきれなかった。

20年前に再訪すると、塔は確実に伸び、ファサードは姿を現していた。それでもまだ半分ほど。クレーンは林立し、「永遠の未完」という言葉が似合っていた。

そして現在、ほぼ完成に近づいた姿を前にすると、胸が熱くなる。遂に、ガウディの夢が叶おうとしている。

だがここで問いたいのは、「この聖堂は誰が建てているのか」ということだ。

設計者である アントニ・ガウディ の天才性ばかりが語られる。しかし実際に140年以上にわたる建設を支えてきたのは、国家でも王室でもない。

答えは、私たちである。

サグラダ・ファミリアは「贖罪聖堂(Expiatory Temple)」として始まった。つまり、信徒の献金によって建てる教会。スペイン政府の国家予算は投入されていない。ローマ教皇庁からの直接的な財政支援も基本的にはない。宗教的には2010年に ベネディクト16世 によって小バシリカに認定されたが、財務的には独立している。

最大の資金源は、観光客の入場料だ。

年間数百万人が訪れ、そのチケット収入が工事費に充てられる。パンデミックで観光が止まったとき、工事も縮小せざるを得なかった。つまりこの建築は、観光の動向と直結している。信仰と観光資本が融合した、極めて現代的な聖堂なのである。

加えて、世界中からの寄付、オフィシャルグッズ販売、出版物、ライセンス収入も循環している。もはやこれは単なる教会ではなく、文化ブランドであり、巨大なエコシステムだ。

35年前、落書きだらけだった外壁を思い出す。あの頃は、未完の象徴だった。20年前は、進行中の巨大プロジェクト。そして今は、完成目前の世界遺産。

だが視点を変えれば、これは一人の建築家の夢の達成というより、無数の無名の人々の小さな支払いの累積だ。

チケットを買った人。寄付をした人。模型を購入した人。彼らの数十ユーロが石に変わり、塔に変わり、光の柱になっていく。

国家の威信ではない。帝国の権力でもない。
市民の参加によって育った聖堂。

だからこそ、完成に近づく今、私は単なる観光客の感動以上のものを感じる。自分もまた、チケットを買った一人として、この建築の時間に参加しているのだという実感。

遂にガウディの夢が叶おうとしている。
しかしそれは同時に、140年にわたり世界中の人々が支え続けた夢の結晶でもある。

サグラダ・ファミリアは、石でできた建物でありながら、実は「支払いの連なり」でできている。

祈りと資本。信仰と観光。
その交差点に立つこの聖堂は、現代における最も純粋な公共建築のひとつなのかもしれない。

羨望を設計するアルゴリズムと、交換の純粋性

ポケモンカードが25億円で落札されたというニュースを見て、私は強い違和感を覚えた。売買そのものを否定するつもりはない。市場において価格が跳ね上がることはあり得るし、所有物をいくらで売ろうと個人の自由である。交換とは、本来、所有の完全な移転だ。売るということは手放すことであり、未来の評価や価格をコントロールできない状態を引き受けることだ。その不可逆性、象徴的な切断こそが交換の純粋性である。

しかし、私の違和感は価格そのものにはない。それが「羨望を煽る語り口」で拡散される構造にある。

現代のニュースは、もはや単なる報道ではない。SNSのタイムラインを通過するとき、情報はアルゴリズムによって選別され、増幅される。アルゴリズムは公共性や節度を基準にしていない。基準はエンゲージメント、すなわち反応の強さだ。驚き、怒り、羨望、嫌悪――感情の振幅が大きいものほど拡散される。

25億円という数字は、そのための理想的な素材だ。「史上最高額」「夢の一枚」といった見出しは、経済的分析のためではなく、感情を刺激するために設計される。アルゴリズムはそれを検知し、さらに多くの目に届ける。こうして交換は静かな契約から、欲望を演出するスペクタクルへと変質する。

問題は欲望そのものではない。欲望は人間の構造であり、消すことはできない。だが、SNSのアルゴリズムは欲望を穏やかに扱わない。それを極端化し、比較を加速させ、序列を可視化する。持つ者と持たざる者の差異を、絶えずスクリーン上に提示する。

未成熟な子供たちは、その断片化された成功像を文脈抜きで受け取る。「これほどの価値がある」「一枚で人生が変わる」。努力の時間軸や偶然性、投機のリスクは消え、結果だけが輝く。カードショップ襲撃のような事件が起きるとき、背景には経済的困窮や家庭環境など複合的要因がある。しかし、羨望を煽る物語が短絡的回路を強化することも否定できない。

アルゴリズムは責任を負わない。ただ「反応」を最大化する。その結果、社会は静かに比較と焦燥の装置へと変わる。交換の純粋性は、演出された優越の物語に覆われる。

アメリカ社会には寄付文化もあり、合法に得た富の使途は自由だという前提も強い。しかし、その物語がSNSを通じて日本にまで輸入されるとき、文化的な緩衝材は薄い。日本には少なくとも、富を控えめに扱う美意識があった。だがアルゴリズムは文化差を考慮しない。反応の強い物語は国境を越えて流れ込む。

ここで問うべきは、富の存在ではなく、物語の設計だ。価格の跳躍を神話化する語りを選ぶのか。それとも、投機性や偶然性、リスクを含めた複層的な文脈を示すのか。アルゴリズムが刺激を優先するなら、人間の側が節度を持つしかない。

世界を閉じた管理空間にしたくはない。交換は自由であってよい。しかし、欲望を増幅する機械に社会の感情を委ねることもまた、望ましいとは思えない。

問題は25億円ではない。問題は、それをどう語り、どう広げるかである。羨望を設計するアルゴリズムの時代において、私たちはせめて語りの節度を取り戻せるだろうか。

《VOLATILITY》展へ

市川平、中島崇、河合政之による三人展《VOLATILITY》は、揮発性という語が示す不安定さや移ろいを、空間全体を通じて体験させる試みである。会場となったアートファクトリー城南島は、かつて電子部品の工場として稼働していた巨大な建築空間だ。その産業的記憶を宿した場所性が、展示の主題と強く共振している。

市川平の光の彫刻は、人工的でありながらどこか触覚的なぬくもりを帯び、河合政之の映像は、デジタル編集の洗練をまといながらも、ブラウン管テレビ以前のざらついた視覚体験を思わせ、アナログ信号のノイズを想起させる揺らぎを空間に漂わせる。二人の共作は観る者を「デジタル社会以前」の時間へと回帰させる。そこには単なる懐古趣味ではなく、情報が過剰に安定化された現代への批評的視線がある。ノイズは排除すべき誤差ではなく、世界の厚みを回復するための契機として提示されているのだろう。

一方、中島崇が新聞紙再構築しを彫刻的に積み上げて構築した迷路状の空間は、情報メディアの物質性を露呈させる。日々更新され、消費され、忘却されていくニュースが、紙という脆弱なマテリアルとして再び身体的なスケールを獲得する。その迷路を歩むとき、観客は情報の洪水のなかで方向感覚を失う自己の姿を追体験する。同時に、紙の匂いか記事の断片が、どこか神秘的な感覚を呼び覚まし、言語以前の感受性へと遡らせる。

《VOLATILITY》は、光・映像・紙という異なるメディウムを通して、安定を志向するデジタル社会の基盤がいかに揮発的であるかを示す展覧会であった。工場跡という場の記憶と結びつきながら、三者の作品は、ノイズや迷路という形式を通して、私たちの知覚と記憶を再編成する。そこに立ち現れるのは、過去へのノスタルジーであると同時に、現在を問い直すための鋭い装置なのである。

2026年3月20日まで開催しております。https://gallery1045.com/archives/4589