Core on those voices

AIの進化は凄まじい。制作に使ったAIの「Suno」は、米国マサチューセッツ州ケンブリッジに本社を置くスタートアップ企業 Suno, Inc. によって開発され、歌詞やテーマなどのテキストプロンプトを入力するだけで、ボーカルと楽器を含むオリジナル曲を自動生成する機能を持ち、大手レーベルとの提携も進み、AI音楽制作の代表的なツールとして注目されているという。

エリックドルフィーをオマージュし、現代的(2026年らしい)フリージャズの黎明期を再現してみた。力量のあるミュージシャン、エンジニアの力を借りなきゃできない場面を独りで想像する悦楽は、新しい音楽空間を開いていく。譜面化したところで、自分で演奏は出来ないので、デスクトップ音楽家のヨチヨチ歩きで楽しみたい。

Core on those voices をお聴きください。

https://suno.com/s/Yx2DzlMgOPH4pRth

解説『人の魂を浚っていく、蟹の群れを底引き網が根こそぎ浚っていってしまうように。それでも人の魂は、海底に潜む蟹のようにしか生きていけない』

――記憶と責任の海底で、人はなぜ生き延びてしまうのか

<私家本>

本作の長大なタイトルは、比喩である以前に、すでに倫理的宣言である。「人の魂を浚っていく」という暴力的な運動と、「それでも蟹のようにしか生きられない」という諦念。その二つが一息に結ばれたこの一文は、救済や成長、和解といった物語的快楽を、最初から読者に許さない。

物語の中心にいる津田は、破綻した人生を生きる人物ではない。広告代理店に勤め、家庭を持ち、夜には皇居を走る。彼は社会的には「問題のない側」に属している。しかし本作が描くのは、問題を起こした者ではなく、問題を見ないことで秩序を維持してきた者の不安である。

同窓会という平凡な場で語り出される小学校時代の記憶――教師による逸脱、少女の転校、沈黙を強いられた空気――は、三十年の時間を経てなお回収されない。ここで重要なのは、暴力が再発見されることではない。それが、長いあいだ「なかったこと」として社会の底に沈められてきた事実である。

津田は正義の告発者ではない。彼は、行方不明になった同級生・神尾(山根)を「気にしてしまう」だけの男だ。連絡を取り、住所を辿り、管理人に話を聞く。その行為は誠実に見えるが、同時にどこか居心地が悪い。なぜなら津田自身も、かつて起きていたことを「知らなかった側」「見なかった側」に属しているからだ。

本作における社会の比喩は明確である。それは底引き網だ。底引き網は、善悪も、罪も、無垢も選別しない。海底の生を一括して掬い取り、破壊する。学校制度、再開発される街、更新されていく秩序――それらはすべて、誰の魂が失われたのかを記録しない装置として機能している。

そのなかで生き残った者たちは、蟹のように海底に潜む。蟹は前に進まず、横に這い、殻を背負い、捕食される存在だ。津田もまた、主体的に未来へ向かう英雄ではない。彼は記憶の海底を横歩きし、ときおり真実の光に照らされては、また暗がりへ戻っていく。

この小説が特異なのは、ここからケア(世話・心配・配慮)という行為そのものを問いに晒す点にある。津田と妙子の行動は、現代的な言葉で言えば「アダルトナーシング」である。自立しているはずの他者を気にかけ、支えようとする行為。しかし本作は、それを倫理的に称揚しない。

ラカンの理論を参照すれば、ケアはしばしば「他者の欲望を欲望する」構造を持つ。津田は神尾を救おうとしているのではない。彼は、神尾という不在をめぐって動いている自分自身の位置にとらわれている。行方不明の神尾は、欲望を駆動する〈対象a〉として機能し、決して回収されない。

アダルトナーシングの最大の危険性は、それが善意の顔をしている点にある。世話する主体は、相手の欠如を埋めるふりをしながら、無意識のうちに快を得る。ラカン的に言えば、それは享楽(ジュイサンス)であり、そこに入り込んだ瞬間、ケアは暴力へと転じる。

本作で神尾は、次第に実体を失っていく。虚偽の住所、存在しない居住記録、回収されない痕跡。彼女は「語られる存在」ではなく、「語るための空白」となる。ここにおいてケアは、相手を沈黙させる力として働く。津田は介入しすぎないが、それでも神尾を「意味づけの対象」にしてしまう。

だからこそ、この物語には救出も解決もない。誰も完全には救われない。それは失敗ではなく、本作の倫理である。「それでも人の魂は、蟹のようにしか生きていけない」という一文は、他者を完全に救えないこと、欠如を埋められないことを引き受けた主体の姿を示している。

『冥王星』が〈周縁に追放された存在〉を描いた作品だとすれば、本作は〈周縁にいながら加担してしまう者〉の物語である。善でも悪でもない、多数派の位置。その曖昧で不快な場所を、貴一は逃げずに描いた。

この小説は、読者に理解や慰めを与えない。代わりに、理解していなかったこと、黙って通り過ぎてきたことの量を突きつける。その不快さこそが、本作の文学的誠実さである。

蟹は救われない。
だが、蟹であることを否定しない文学が、ここにある。

――〈引きこもり〉と〈救済〉の神話を解体する、冷えた優しさの物語『冥王星』

<私家本>

貴一の『冥王星』は、いわゆる「社会派小説」でもなければ、「福祉小説」でもない。引きこもり支援、NPO、女性ボランティア、医師、母親といった現代的な題材を用いながら、本作が徹底して描いているのは、人間が他者の〈世界〉に触れてしまったときに生じる、取り返しのつかない変化である。

物語は、薄暗いバーでの幻想的な邂逅から始まる。影のような男が語る冥王星の「格下げ」は、科学史の逸話であると同時に、本作全体を貫く主題――存在の序列化と、その暴力性――を予告する神話的導入である。冥王星とは、太陽の光が届かぬ場所にありながら、かつて「惑星」と呼ばれていた天体だ。つまりそれは、かつて中心に属していたが、周縁へと追放された存在の象徴である。

主人公・朋子もまた、そうした周縁に生きる人物だ。キャバクラで働き、恋愛関係は常に不安定で、社会的な自己肯定の軸を持たない彼女は、引きこもりの男性・佐々木君の「話し相手」として雇われる。しかし重要なのは、朋子が「救済する側」として描かれない点である。彼女自身が空虚で、選ばれることに慣れ、しかし決して「他者を受け入れる」主体ではなかったことが、物語の随所で露呈していく。

佐々木君の部屋に敷き詰められた「ドーナツ」は、本作でもっとも秀逸な比喩装置だろう。スタンレー・ミルグラムの「6次の隔たり」を、彼はドーナツの輪として語る。だが佐々木君にとって重要なのは、遠くへ繋がる理論ではなく、最初の一つの輪=唯一触れうる他者である。朋子はその「ひとつめのドーナツ」となり、彼の世界の全重量を一身に引き受けてしまう。

ここで本作は、安易なヒューマニズムを拒否する。支援とは何か、優しさとは何か、という問いは、徐々に侵食へと変質していく。朋子は佐々木君を「目覚めさせた王子様」だと周囲から称揚されるが、その称揚こそが最も残酷だ。彼女は誰にも頼まれていない役割を背負わされ、逃げ道を奪われていく。

後半、海へ向かうロードムービー的展開は、物語を決定的に異界へと滑らせる。かつてテニスの「ホープ」だった佐々木君の過去、廃墟のドライブイン、モーテル、トンボ3という異形の人物――これらは現実でありながら、現実の皮膚を一枚剥いだ場所に存在する。ここで朋子は明確に恐怖を感じるが、それでも逃げ切れない。なぜなら彼女自身が、すでに冥王星の重力圏に捕らえられているからだ。

『冥王星』が優れているのは、誰も完全には救われない点にある。佐々木君は外へ出る。しかしそれが幸福かどうかは語られない。朋子もまた成長譚の主人公にはならない。残るのは、「受け入れる」という言葉の重さと、その不可逆性だけだ。

冥王星とは、闇の中にあり、富を司る神プルートの名を冠した星である。光は届かないが、そこには確かに何かが眠っている。本作が掘り当てたのは、社会の闇ではない。他者を救おうとした瞬間に、人が失ってしまう自己の輪郭である。

貴一はこの小説で、現代的テーマを用いながら、きわめて古典的な問い――「他者とは何か」「関係とはどこまで許されるのか」――を、冷静で残酷な筆致で提示した。『冥王星』は、優しさを疑うための、静かで深い文学である。

『カフワの椅子』の魅力とは

著者:貴一
出版社:沖積舎

日常の表面を透過する“光”としての物語

『カフワの椅子』は、主人公が「コーヒーショップをはじめる」という一見ありふれた物語の枠組みを装いながら、その中に人間の成熟と感受性の深層を織り込んだ静かな傑作である。物語は、日常と非日常を分かつ境界線に鋭敏な感性を持つ主人公の視点を通して展開されるが、そこに反復するように繰り返されるのは“バランス”という概念である。

まず、タイトルにある「カフワ」という言葉が示すように、コーヒーという日常の飲み物はこの作品にとって単なる背景ではない。それは、時間と空間の感受性を調整し、人と人との柔らかな邂逅を引き寄せる媒体として機能する。読者は一杯のカフワを淹れる行為とともに、主人公の内面世界へと自然に引き込まれる。

盲目の老婆という寓話的存在

特筆すべきは、物語に登場する盲目の老婆だ。視覚を欠いた人物という設定は、しばしば象徴的な意味を帯びるが、本作ではそれが過度に象徴的にならず、日常世界の中に溶け込んでいる。老婆は視覚ではなく“他者との共感”という感受性で世界を捉え、その言葉はまるで色のスペクトルのような語彙で語られる。それは、本作が単なる成長譚にとどまらず、人間の知覚と経験の仕方そのものを問い直す作品であることを示している。

老婆との対話を通じて、主人公は自らの感受性と向き合い、自分が望む場所へと少しずつ近づいていく。このプロセスは決して劇的ではない。だが、その静かで確かな変化こそが、本書が持つ最大の魅力であり、読者の心に柔らかい余韻を残す。

文体と余韻:言葉の持つ“間”を読む

文章はいたって透明だが、その中に意図的に切れ目として残された“間(ま)”がある。読者はその間を自らの経験や感性で埋めることを求められる。これは、作者が読者に起こるべき解釈の余地をゆだねている証しであり、文学の可能性を広げる挑戦でもある。

たとえば、カフワの香りが漂う描写一つをとっても、そこには味覚・嗅覚・記憶が絡み合う複層的な世界が映し出される。日常の何気ない瞬間が、時に叙情的な詩のような輝きを放つ所以だ。

『カフワの椅子』は、誠実で優れた物語であると同時に、私たちの“生きるという体験”そのものを再考させる作品でもある。喧噪から切り離された静かな時間、他者と自分との間に漂うささやかなずれ、そしてそこに生まれる共感と理解―。この物語は、現代という速度の速い世界にあって、むしろ立ち止まり、呼吸し、世界と対話することの尊さを思い起こさせる。

読む者に寄り添いながら、同時に重層的な問いを投げかけるこの小説は、ゆっくりと、しかし確実に読者の内面に作用する――そんな稀有な文学体験を提供してくれるだろう。

LLMは人間社会に内在するか、また外在する可能性があるか?

日本人はAI立国を目指し、能天気にLLMを道具だと思っている人が政府も知識人にも多いが、道具以上の課題を人間社会に内在する言語空間にもたらすと、LLMが教えてくれました。

◾️質問:LLMは人間社会に内在するものと考えています。外在的に思考を拡張する可能性はありますか?

GPT-4.0の回答
大規模言語モデル(LLM)が人間社会に内在するか、あるいは外在的に人間の思考を拡張する可能性があるかという問いは、技術と人間の関係に関する興味深い議論を提起します。

LLM
が人間社会に内在すると考える理由
開発と応用: LLMは人間によって開発され、維持され、進化し続けています。その使用方法、目的、倫理的指針は人間の社会、文化、法律によって形成されます。
人間の知識と文化の反映: LLMは人間の言語、知識、文化から得られたデータに基づいて訓練されます。そのため、その出力は間接的に人間の知識、思考、文化を反映します。

LLMが外在的に思考を拡張する可能性
思考の拡張: LLMは人間の思考や認知プロセスを外部からサポートし、拡張するツールとして機能します。これにより、人間は新たなアイデアを探求したり、問題解決を効率化したりすることができます。
新しい知識の生成: LLMは既存の知識を再構築し、新しい形で提示することができます。これにより、新しい視点や解釈が生み出され、人間の理解を深めることができます。
結論
LLMはその開発と運用の面で人間社会に内在していますが、その機能と影響の面では人間の思考を外在的に拡張する可能性を持っています。この二重性は、テクノロジーが人間の知的活動にどのように影響を与えるかという、より広い議論の一部です。LLMは人間の思考や学習のプロセスを補完し、拡張する道具として使用されることで、私たちの認知能力の範囲を実質的に広げることができます。

◾️質問:もし外在的にLLMが判断をし、アウトプットをする場合、人間社会がLLMに侵食され、変容するのではないでしょうか?

GPT-4.0の回答
外在的にLLMLarge Language Models)が判断を行い、アウトプットを提供する場合、人間社会に対するその影響は、確かに深刻かつ広範囲に及ぶ可能性があります。このプロセスによって人間社会がどのように「侵食され」あるいは「変容する」かは、複数の要素に依存します。

LLMの影響による社会の変容
意思決定プロセスの変化: LLMが意思決定や推薦を行う場合、人間はこれらの提案に頼る傾向が強まるかもしれません。これにより、個人や組織の意思決定プロセスが変わる可能性があります。
知識と情報の中心化: LLMが広範囲の主題にわたる情報を提供するため、知識の源としての中心的な役割を担うようになるかもしれません。これにより、情報の多様性や視点の多様性が減少する恐れがあります。

依存度の増加: 人間がLLMに依存するようになると、批判的思考能力の低下や判断力の喪失が懸念されます。

社会への「侵食」に関する懸念
個人の自律性の低下: 判断をLLMに委ねることが増えれば、個人の自律性や意志の独立性が損なわれる可能性があります。
民主主義と個人の権利: 決定が機械によってなされる場合、民主主義的プロセスや個人の権利に対する影響が問題となります。


管理と規制の必要性
このような変容や侵食を管理し、最小限に抑えるためには、LLMの使用に対する厳格な規制と倫理的ガイドラインが不可欠です。このプロセスには、技術の透明性、利害関係者の参加、倫理的配慮の組み込みが含まれます。

LLMが社会に与える影響は、その使われ方、管理の仕方、そして社会がこれに対してどのように適応するかに大きく依存します。技術は常に社会に影響を与えますが、その影響が建設的であるか、あるいは侵食的であるかは、その技術の統合と規制の方法によって異なります。重要なのは、LLMのような強力な技術を用いる際には、それが人間の福祉、自律性、そして社会的価値を強化するようにすることです。

 

余りにも空虚な、非人間的な言論空間となりつつあるメディアについて

「時」と「場所」。何かを伝えるときに、その関係はとても重要な働きとなる。ヘタをすれば、話されている内容の価値よりも、全てを決定してしまう。教室、会議室、役員室、法廷。また授業中、試験中、昼食時、開会時、閉会後、掃除中、等。組み合わせは多様であるし、片方が全てを規定はしない。

しかし、新聞の誕生まで、社会の基盤として存在しなかった現在のメディアは、新しい権力、その場に属するメンバーの恣意に任されたまま、曖昧な基準で発信され、社会に混乱を引き起こし、権力を集中させるか、またはテロの温床となってきた。

見た話、聴いた話は、「時」と「場所」が、貴方と共有されているだろうか?

なぜ戦争の報道でどちらが正しいかわかるのか?また犯罪の報道は感情に何を引き起こすのか?SNSの馬鹿騒ぎは、また承認欲求を煽る行為は何を伝えているのか?

送り手には戦略があっても、「時」と「場所」から疎外されている受け手が、理解することは不可能である。単に感情をコントロールされるだけだ。ソーシャルネットが普及した現代では、全てが送り手になれるという幻想とともに搾取されていく。

エンターテイメント?そう思いつつ、蝕まれていく精神こそ、現在の世界的な格差社会を生産している根源だろう。蓋し、近代社会は情報の非対称性から産まれたが、しかし情報の民主化を謳うネットくらい、偏差を産む装置はない。

共同体を共同体の外部が、まるでパペットのように操っていく。

西欧の発明した、自由、権利、平等という民主主義が危機に瀕しているのは言うまでもないが、日本人は災害のひとつくらいに看做しているのかも知れない。

希望と信じられている、A I、ブロックチェーン、仮想通貨等のテクノロジーは、その力をさらに強めていくだろう。残念ながら……

コロナ禍に問われる日本人の知恵

 コロナ禍になったからか、にわか自然科学者や、医者もどきが増殖している。ひとつの話題に「うがい」が意味あるかというのがあって、意味がないという人の論は、厚生労働省が、新型コロナに対するうがいの効果について、「世界的にうがいの習慣は少なく、科学的に確立されたエビデンス(根拠)はない」と説明するのに相乗りしているに過ぎない。しかし日本の厚生労働省は、「のどの調子を整えるために習慣になっている人もいる。とくに推奨はしていないが、否定するものではない」とはしている。

 「うがい」という行為単体での効果を、科学的に云々は、そんなことはどうでも良いとまで言わないが、日本人が続けてきた経験の方が大切だろう。

 大抵、うがいをする時、帰宅し、先ずは洗面所など鏡のある場所へ行き、手を洗い、自分の顔を見、コップに水、薬を入れ、がらがらっと上を向いてやり、吐き出し、鼻が出ればかみ、口元を洗う。  

 うがい単体よりも、こういうストーリー化された行為が重要だ。ギリシャ人は自己への配慮を、人の知恵に大切とした。

 うがいをする時、顔色、喉や首の筋肉の違和感、鼻腔の通りを知り、また手を洗い汚れも落としている。手だけならば、アルコールで洗うで十分だが、鏡を見て自分を調べる行為は欠落する。これが健康に資することは言うまでもない。

 なんでもファクトばかりを一面的に捉える還元主義は馬鹿らしい。理が先立ってばかりは、そもそもの全体を失うことも多い。

 何が良い、何がだめだと理が先立つ前に、自らを感じることが大事だろう。

混沌、あるいは入れ子化していく「私」の彼岸。

 東京は冬だったか。春もなく、いや夏だったかもしれない。

 部屋。空虚さはここだけでなく、そこかしこに溢れていた。ペスト菌が溢れた世界にて、住居に流刑されたと言ったのはカミュだったが、極小さな無生物からの寄生に怯えて暮らす私たちも、同じようにロックダウンをして、身を守っていた。

 空気清浄機が静かに回っているが、これが微細なウイルスを駆除するわけでもなく、それを体感できることもない。しばし点滅する信号が、確かにやっているのだというメッセージを送信してくる。機械が私たちに、安心しなさいと語るのだ。それは木像を神と祈る未開人と変わりはない。(現実界は力を失い、主体なき機械が私たちを慰める)

 日本人は奇妙な潔癖症からか、または自分を公から隠したいという遁世の気持ちからか、ウイルス以前から顔をマスクで隠す人が多かった。その効果があったのか、マスクの生活への移行はスムースだった。花粉症であるとか、様々な理由を述べてマスクをしなければなかったのが、言うまでもなく誰もが自然のこととして受け入れた。マスクは肌の外に、手と半ズボンなら脚の他に、唯一露出していた顔の半分を隠す。口と鼻という二つの穴、その前から隠されていた肛門、その他の性器の穴は塞がれた。現実を感じる受け入れ口は、目と耳を除いて、閉じてしまったようだ。その分、目と耳は無理やり稼働しなくてはならなくなった。

 そして目は書かれた文字と、映像(絵)という象徴界へさらに向かう。かつてマクルーハンがTVはマッサージだと言ったが、2020年の現在では、スマートフォンも、インターネット環境そのものがTVと同じ、感覚と刺激の拡張になっていて、そこからツイートやインスタグラム、またリンクした無量の動画の渦のなかに没入し、世界は透明になったようでありながらも、まさに混沌とした。

  無量にあるデバイスから誰もが侵入できるネット界は、自分の似姿を加工し、投影できる場所でもある。ナルシスは、自らの姿におぼれて死んでしまうが、ナルシスが水面に映る自分のイメージに恋をしたからと言われる。つまりナルシスは現実の肉体ではなく、「私」から分裂し、他者化した自己のイメージに溺れてしまった。それから鏡も、写真も進化し、自己像のイメージも分裂に悩むのは、映画俳優や、一部の有名人だけの出来事ではなくなった。そこいる私と、ここにいる私は違う。二年前のあの写真の中の姿が本当の「私」で、今の「私」はそうではない等。しかもイメージは同時に社会化され、想像界と象徴界とも結ばれている。もしその自分を否定できるのならば、会ったこともない政治家や有名人も同様に存在しないと断言するようなものだ。そこには虚偽も事実もなく、無限につながる鏡=イメージの共振があるだけだ。まるで対峙した二枚鏡を覗き込んだ時のように。

 ラカンの言う「現実界」「象徴界」「想像界」に存在する「私」をまず取り込む、存在である「現実界」の上、第二の皮膚は「言語」であり、第三の皮膚は「想像(イメージ)」である。その外の構造は、順に「家族」「共同体(学校、会社)」「国家(大きな社会)」と階層化していく。しかし高度化するメディアはウイルスのように、その身体を書き換えて、増殖し、階層化し、「私」(皮膚)を蹂躙する。階層化した世界を打ち壊し、あらゆる穴に侵入していく。もはや構造も、いったい何が層となっていくかもわからない。

 「私」は探し求める。父や母が好きだった物語を受け継いでいるか、国家が制度化した標準的な国民であるか、または消費社会が生み出した膨大な物語のなかでどういう役割を演じているか。好きな有名人(宗教家)が演じたコンテクストに自分が寄り添っているか、憧れるブランドの世界に自分は繋がっているか等、様々な要因のなかに自らを失い、さ迷っている。

 ジャン・ボードリヤールの視点を借りて、「広告」を「SNS(ネット)」に置き換えるとこういうことである。

 SNSの狡猾さと戦略上の価値は、まさに次の点に存在している。すなわち、誰にも自分の社会的威信を確認したいという気持ちを起こさせて他人と比較させることである。

 SNSは決して一人の人間だけに対して向けられることはなく、個人を他者との示唆的関係において標的にしている。個人の「奥深い動機」をひっかけたように見えるときでさえ、SNSはいつもよく目立つやり方でそうしているのだ。

 ■つまり、彼や彼女と親しい人々や集団あるいは階層化された全体を、読解と解釈の過程、SNSが作り出す自己顕示の過程へと呼び出すのである。

 高度資本主義は半世紀前に、商品を使用価値ではなく、象徴的な価値へと変貌していくことへ変容し、その先に個人が自分に対して商品化していく次元へと至っている。自己顕示のさなか、欲望の階層化の果てに、自らを売春婦とし、その稼いだ貨幣を、また別の売春婦へ贈与するのである。それでも自己顕示により社会性の中で、自らの商品価値が拡大すると想像しながら。

 現在、世界の検索を事実上支配しているGAFAの、特にグーグルは、象徴界(言葉)所有してしまうことを目指している。紐づけられた現実界、想像界が、そこから結びつけ、資本主義のシステムに処理され、操作され、または個人の物語が消費されていく。消費された「私」はまた顔を失い、新しい顔を求めて回遊する。その行動に、すべての消費が紐づけられていく。

 中国の故事に、渾沌(こんとん、拼音: húndùn)がある。中国神話に登場する怪物の一つであり、四凶の一つとされ、その名の通り、混沌(カオス)を司る。犬のような姿で長い毛が生えており、爪の無い脚は熊に似ている。目があるが見えず、耳もあるが聞こえない。脚はあるのだが、いつも自分の尻尾を咥えてグルグル回っているだけで前に進むことは無く、空を見ては笑っていたとされる。善人を忌み嫌い、悪人に媚びるという。また別の説では、頭に目、鼻、耳、口の七孔が無く、脚が六本と六枚の翼が生えた姿という説もあるが、荘子いわく、目鼻をつけると死んでしまうそうだ。

 私たちは移動できなくなることにより、さらに混沌に引き込まれ、現実界から遠ざかっていく。官能と暴力の彼岸へと、世界は邁進し、さらなる混沌へと引き込まれていく気がしてしまう。だが、もしAIによる、つまり機械による効率化や管理が、この混沌に道理を持ち込んだらどうだろうか。そこが一番恐ろしい事態かもしれない。

 蓋し、混沌の死と同時に、高度資本主義も絶滅するのだと思う。

 

ジョージ・フロイド氏の無残な死

白人と体制(警察官)がひとりの男を殺した。

確かに犯罪行為が推量される状況だったかもしれない。しかしあの映像が「象徴」的につきつけた事実は、現在も世界に「白人」社会と「近代資本主義国家」が、多大な奴隷の犠牲によってはじまり、またいまもそれが終息していないことだ。

確かに、あの警察官も裕福ではなくサイレントマジョリティーのひとりかもしれない。現在、アメリカの富の格差は著しく、そこにコロナ騒動もあり、もはや数千万の雇用が瞬間に失われ、同時にその影響も関係なく抑圧された人々がいまも大勢いるという事実である。フォーブス誌によると、2018年を見ると、最も裕福な10%が、家計資産合計の70%を所有している。この数値は、1989年には60%だった。トップ1%に流れ込む割合は、1989年の23%から、2018年には32%に跳ね上がっている。2020年も更に加速してるだろう。

奴隷制のはじまりは、1619年8月下旬、ホワイトライオンという名のイギリスの船がアメリカに奴隷を荷下ろし、1662年、バージニア州の議員が奴隷制度を正式に制定した。可決した法律にはこう書かれていた。奴隷となった黒人女性が生んだ子供もまた、全て永遠に奴隷になると宣言され、歴史家のカサンドラ・ニュービー・アレギサンダーは、「奴隷制度はアメリカ経済にとって非常に大きく、非常に重要で、それはアメリカの(他の)産業をすべて足し合わせたものよりも高く評価されるほどでした」と話していたそうだ。つまり新国家アメリカは、奴隷制度とともに発展し、北東部の州であるロードアイランド州の初期の白人議員たちはそれで財をなし、アメリカの新国家は奴隷とともに発展したものの、合衆国の奴隷制度が終了したといわれる1863年以降も、黒人たちの社会的な位置を、「白人」たちは放置した。1960年代のキング牧師の台頭も、暗殺によって中断し、いまでも多くのアフロ・アメリカンは、一部の社会的な成功者(スポーツ、エンターテイメント)を除いては、1980年代~90年代になっても抑圧されている。勿論、一部の成功者の黒人たちは、多少はその恩恵を受けたが、それが眩い光としてメディアで増幅されて広く伝わることの影に、蓋し過去から変わることのない闇が現在も存在している。それはタイガーウッズや、オバマ大統領が誕生しても、まだアメリカのなかには、文化的遺伝子として継承されているのだろう。なぜなら、そもそも黒人は奴隷であり、それが国の富を産み出したからだ。しかし奴隷解放以降は、「白人」社会にとっては、処分できない負債だったのだ。

私たち日本人は、その現実に対して、他国への内政の問題であるから沈黙するべきなのであろうか。それとも、何か声をあげるべきであるのだろうか。私にはその答えはわからない。

それでも現状の著しい世界における富の格差と、同時に「生資本」(消費者)としての価値しかなく、社会的立場も、声もあげることができず、消費社会の船底で生きていくのは、蓋し、近未来の「日本人」も同じことかもしれない。いまや労働は「奴隷」でなく「機械」に。そうであるならば、経済・政治システムにとって無用な民の存在は、「生資本」として以外の価値はないだろう。古いシステムと未来のシステムの狭間で、彼は無残に死んだのだと思う。

冥福を祈りたい。

コロナウイルス後の世界:ボードリヤールの慧眼から現在を読み解く。

終わりのない反射と指数関数的加速。

ジャン・ボードリヤールの慧眼は、テクノロジーが人の自由意思を超えて加速化していく地平を見抜いていた。確かにわたしたちのデジタルネットワークが開始されたのは、それほど昔ではない。二十年前は、まだ場所に固定されたアクセスポイントでしかなかったものが、もはや何十億というモバイル端末にてリアルタイムで結びつけられている。

彼は言う、われわれがもはや(主体的に)行為できる立場にはなく、純粋な反応と反射的操作と自動的な対応しかできない状況です、と。

 今回のコロナウイルスの騒動の発端は、2019年末の中国武漢でのアウトブレイクだった。湖北省武漢にある中国科学院武漢ウイルス研究所は、1956年設立に設立され、いまでは数万種のウイルスの銀行のような機能も持ち、安全レベル4の研究所である。そこから杜撰さから漏れ出したのか、故意に漏れ出したのかはわからない。しかし第7番目のコロナウイルスは、まさにわたしたちが主体として行為できる立場ではなく、「純粋な反応と反射的操作と自動的な対応しかできない状況」とした。

 事態はその前から始まっている。アメリカと中国の対立はイデオロギーの対立ではなく、そこにはかつて人間中心主義を構造主義が放逐した言語(法制度)でなく、反射的操作を加速化させるアルゴリズム(AI)により、世界のヘゲモニーを米中どちらが獲得するかをかけて闘っている。フェースブック、グーグル、アップル対、アリババ、ウエイボー、ファーフェイのような国家に繋がるプラットフォーマー・グローバル企業の艦隊である。

 かつて世界的な金融を牛耳ったロスチャイルド家は、戦争を牛耳り、ロスチャイルド家の援助なしに、戦争を始めることのできる国などヨーロッパには存在しないと、ポーランドのムスカウ侯爵に言わしめたが、そこには巨大資本家の身体が存在した。そこに資本家と労働者の闘争というイデオロギーが創出され、共産主義を通じ、欧州は「自由」を求め、その資本を巡る帝国主義との百年以上の闘争をはじめた。第一次世界大戦、全体主義の台頭、第二次性世界大戦が起こり、制止するために国際連盟、国際連合と、ヨーロッパに資本家による戦争を生み出さない試みを通じ、二十世紀のわりに、欧州はEUという着地点に至った。

 そこまでには偉大な熱量と、欲望と情熱が、人間の身体を通じて、まさに血を流して完了されたのだが、王も、神も、人間も、王座から追放した後に残ったのは、「政治的なものの場面、社会的なものの場面の終わり」だった。「舞台とスペクタクルにより古き疎外状況は消滅し、主体相互の限りない透明化と、情報を前にした出来事の透明化、リアルタイムのコミュニケーションにおける交換の透明化、市場経済の透明化、そしていたるところで生じている悪の透明化等々のために場所を譲った」というボードリヤールが、1995年に発言した内容が、その後加速化したのである。

 「純粋な反応と反射的操作と自動的な対応」は、いまや先に出たプラットフォーマー・グローバル企業の領域である。歴史学者のイスラエル人ユヴァル・ノア・ハラリは言う、政府が市民を監視し、ルールを破った人を罰する方法だ。今、人類史上で初めてテクノロジーを使えば全ての人を常に監視することが可能になった。50年前だったらソ連の国家保安委員会(KGB)であっても、24000万人に上るソ連の全市民を24時間追跡することはできなかったし、そうして収集した全ての情報を効果的に処理することも望むべくもなかった。KGBは人間の工作員や分析官を多く駆使したが、それでも全ての市民に1人ずつ監視役を張り付けて追跡するのはどうしても無理だった。だが今では各国政府は生身のスパイに頼らずとも、至るところに設置したセンサーと強力なアルゴリズムを活用できると。

 透明化は個人のプライバシーも、また権利も、身体も、プラットフォーマーたちが飲み込んでいく。「器官なき身体」が捕獲され、人間では無理だった管理社会が実現される。同時に偉大な熱量と、欲望と情熱が、人間の身体を通じて、まさに血を流して獲得した「自由」が忘却されてしまい、17世紀のルソー以来、ヨーロッパ中心主義から生み出された「人間」は解体され霧散していく。ヒューマニズムは完了したかのように。

 2016年に、欧州連合域外への個人情報の輸出を規制するGDPRが法制化したことや(2018年5月25日から施行)、移民を巡り、UK2016623日の国民投票の結果、投票者の51.9%がEUを離脱することを選択したブリクジットも、その解体の一社会的現象である。同時に、より「透明化」を促進し、膨大なデータ「管理」を推進できるシステムである5Gのネットワークは、中国のファーウエイ社の津波のようなセールスに世界は飲み込まれつつあり、唯一、アメリカ、日本、オーストラリア、また欧州の一部はそれに抗っているのが現況だ。(20204月)

 現在、新型コロナウイルスに、まさにわたしたちは無防備にさらされている。ジョンズ・ホプキンス大の集計によると、世界全体の累積感染者は142万人に上る。42日に世界全体で100万人を超え、1週間で倍増するペースになり、しかも検査自体が高度な技術とリソースを要することからも、インド、アフリカ等の貧しいエリアでは把握すら難しい。

その膨大なリスクは、日本が国家予算を超える対策費を投じても、追いつくかわからない経済的なインパクトもあり、世界はグローバルにおいて新型コロナウイルス(Covid-19)以前の姿には戻らないだろう。さらに「人間」の「自由」のリスクを管理するシステム及びネットワークが台頭し、AIという名の巨大なアルゴリズムのさらなる浸食が不可分になるはずだ。もはや「自由」というのは、二十世紀を回覧したタブローに描かれた、歴史のイメージになってしまうのかもしれない。